年末が近づいてきて、年の瀬のせわしなさの近づきに加えて来春卒業の学生の就職ももはや終盤といわれるこの頃である。就職ばかりではない、世の中そこそこ景気が上向いてきていると言われているにもかかわらず、フリーターだのニートだのも含めて若者の就職戦線が混迷している状況があるらしい。

 そうした中でいったん就職したにもかかわらず転職していく傾向も増加しているのだそうである。ついた仕事がどこか自分の望むものとは違うと感じ、俳優のキムタクが演ずる職業であるとか、人気映画の職業に対する希望が増加しているという話も聞いた。
 もちろんそうした傾向が、例えば幼稚園や小学生が「将来何になりたいの」という質問に対して他愛ない望みや夢の話を答えるのならば微笑ましいエピソードとして逆に応援したくなるような気持ちにすらさせてくれる。だが自分の将来を決めるような仕事の選択が、いわゆる人気に影響されてしまうことにどことない違和感を感じたのである。

 私はこの映画やテレビの職業に影響されるのが子供ではなく大人だというところに、違和感を超えて現代の若者が直面している今に、危機みたいな感情を抱いてしまったのである。もちろん、そうした職業希望への背景には、「辞めても仕事はすぐに見つかる」との思惑であるとか、「人材の流動化が進み、再チャレンジの機会が増えた」とする社会全体の風潮が影響しているとの気がしないではない。
 そうは言っても、「大量採用が続けばいずれ求人は頭打ちになる」ことはつとに歴史の示すところであり、仕事が特定の個人を待っていてくれたことなどほとんどなかったのではないだろうかと思うのである。

 もちろん仕事の選択がイメージ先行になってしまうことは、その仕事をきちんと理解できる前、つまり多くの場合卒業と同時に職業を選択しなければならないことからくる宿命のようなものかも知れない。現代は昔のように見慣れた父親の仕事を子供が何代にもわたって継いでいく時代とは異なり、社会全体がサラリーマン化していて選択の巾が広大になっているからでもある。しかもテレビなどを通じて有形無形の情報が氾濫と言えるほどにも広まり、かっこ良さだとか手軽に儲かるだとか、更には異性にもてることなどが職業選択に対しても若者を脅迫しつつある時代である。

 そうした価値観の背景には他人の目を意識するという現代の風潮が抜きがたく浸透しているのかも知れない。しかも「理解できる前に就職しなければならない」という前提がそれに追い討ちをかけ、「もっと自分にふさわしい何か」がきっとどこかにあるはずだとの考えに追い込んでいくのもあながち間違いだとは言えないだろう。

 「じっくり考えてこそ自分が見つかる」と諭すのはたやすいが、じっくり待っても見つからなかったらどうするのだろうとの不安に駆られるのも分からないではない。あせりからはいい結果は生まれないとも多くの人は言うし、どんな職業にだって心を込めれば生甲斐になるのだとしたり顔をする識者、評論家も多い。
 しかも人は心のどこかで自分にふさわしい出番の機会がきっとあるはずだといつも思っている。たとえそれが幻想に過ぎない他愛ない夢であって、人生の黄昏になってから静かに振り返る思い出の中でのみ味わうことのできる微かな苦さなのだとしても・・・。

 だがそうした思いに対しての決定的な障害がある。時間である。時は誰に対しても同じように迫ってくる。時間は分秒の単位だけではない。三年の時間は三年の加齢を現実のものとして突きつけてくる。結婚や社会の対人関係などに年齢をあからさまに組み込むのは必ずしも賛成できないけれど、そうは言っても例えば家庭を作り子供を育てていく経過に年齢を無視することなどできはしない。そもそも生殖能力にしたところで年齢と密接不離にあることは生物としての種そのものの構造として否定することなどできはしないからである。

 どうしたら「自分の居場所」を見つけることができるのか、人はあまりにもその答を他者の評価に求めたがる。「誰かが与えてくれる」のだと、心のどこかで執拗に思い込んでいる。
 私たちは自他共に「自分の居場所」にゆったりとしている人を、回りにも、テレビなどでも見ることがある。そしてそうした人たちの多くは成功者である。成功者の成功の物語は、語る者にも見る者にも心地よさを伝えてくれる。

 だが人生は成功者だけのものではない。成功の甘い香りは他者の評価の中にのみ存在するのではない。無名の多くの人々は、無名のままに生涯を終えていく。ならぱそうした無名の多くの人々は、自分の居場所を見つけられないままに生涯を閉じたのか。そんなことのないことは余りにもはっきりとしている。有名、無名にこだわるのは他者の評価の中にのみ自分の居場所を見つけようとするからである。

 私は私の経験からしか伝えることはできないし、表題に掲げた「石の上にも三年」は今ではカビの生えた俚諺かも知れないけれど、この言葉は自己評価を通じた自分の居場所探しのキーワードになるのではないかと思っているのである。

 分かることが仕事への興味をかもし出す。そして分かろうとする努力がその仕事への新しい魅力を作り出していく。そして仕事は多様である。経理、営業、庶務、製造などの大きな分類のみに限られるものではない。経理の分野にだって原価計算から租税経理や企業会計などまで多岐にわたる分野を持っているし、製造にだって技術にまで及ぶならそこには未知があふれかえっている。それらすべてはすべて未経験の分野である。恐らくは5年、10年を費やしたところでそのすべてに関わり理解することなど不可能だろう。

 ひらめきに生きる天才がこの世に存在するだろうことを否定したいとは思わない。だが世の中は天才ばかりで埋め尽くされているわけではない。天才は僅か一握りしか存在しないしそれでいいのである。そして天才とは、むしろその能力を利用して天才でない多くの人たちを楽しませ貢献してくれるために存在しているのだと理解したほうが、我々凡人にとってはとても楽しくなるのではないか。
 ベートーベンもゴッホもトルストイも、凡人が凡人として社会をきちんと作り上げ、豊かに育てていくためのきっかけを与えてくれるために存在していると考えられるなら、世の中いまのままでもけっこう楽しくなるのではないだろうか。

 どんな職業の中にでも無数と言っていいほどの選択肢がある。「無数」とはその全部を決して経験できないということでもある。巨匠と言われる人たちにだって、己の才能を疑ったこと、行き止まりと感じたこと、未熟さに戸惑ったことなどありふれるほど存在していたはずである。
 無数の山のどこかに自分の登るべき頂があるとしても、その全部を登攀することなどできはしない。たとえそれが見つかったとしても、登山口を決め、ルートを確保し、その道へ分け入るのはやっぱり自分の努力である。

 「三年」にこだわるわけではないが、今の職業を選んだのは自分である。分け入る道を探しもしないで他の山の頂を望むのは、その選んだ職業を自ら否定することであり、選んだ自分自身を否定することでもある。

 選ぶのは何も職業だけではない。自分の責任ではないけれど生まれてきたことから一つの選択は始まったといってもいいだろう。学校、部活、友達、趣味、興味、就職・・・、昼飯に何を食うか、床屋へいつ行くかなどの瑣末なことどもを含めて、結婚するかしないか、誰を生涯の伴侶とするのか、果ては人生に何を信じるかなどなど、人の一生は選択の連続である。
 選択肢の数だけ、選択しなかった世界も含めて人生は無限に存在するとはSFのパラレルワールドの世界だが、人生は選択と多様性に満ちている。しかも限られた時間のなかでそのすべてを試してみることなど不可能である。

 未知の無数を追いかけている中でたまたまこれこそが自分の居場所だと思える場所が見つかるかも知れない。だからそうした偶然を頼りにするのもそれはそれでその人の選択だとは思う。
 だがそうした思いは見果てぬ夢でもある。人生というのは「年齢を加えること」でもある。やり直しのきかない人生ならば、今の選択にひたむきに努力する以外に途はない。

 魔法使いがカボチャを馬車に仕立てガラスの靴を履かせてくれるシンデレラ願望は、男女を問わずに存在する。だが現実に魔法使いなどどこにもいないし、白馬の王子様が眠っているあなたに優しくキスしてくれることなど、望むべくもないのである。自分が魔法使いになるしかないのである。

 そしてこれは実証不可能な考えなのだと理解しつつ、そしてそれは時として自己満足の言い訳なのかも知れないと思いつつも、努力は決して努力した者を裏切らないと私は頑なに信じているのである。汗して努力する以外にないのである。そしてやっぱり「石の上にも三年」は今を生きる自分の人生へのともし火なのではないかと思っているのである。



                          2007.11.28    佐々木利夫


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石の上にも三年