携帯電話で特定の団体のホームページを呼び出してその中の一定のアドレスをクリックする。そうすると様々な協賛企業のコマーシャルが表われて自動的にそのコマーシャル会社から団体へ一定額が送金されるのだそうである。そしてその送金された中から一円が寄付として取り扱われ募金になるというシステムがテレビで放送されていた。そしてその募金は世界の難民救済などに向けられるのだという。

 それを紹介するアナウンサーの言葉やよし、「自らの負担なしに募金ができます」である。システムは分かった。意味するところも分かった。自らの負担はないと言っても、その団体のホームページにアクセスするための通話料が必要なことも分かった。

 でもそんな寄付を慈善だとか募金などと呼ぶにはあまりにも安易なのではないのかとなんだが素直に納得できないものを感じてしまった。そんなに何でもかんでも「お手軽」にしてしまっていいのだろうか。

 そしてそのクリックをする人は、特定に団体のホームページへアクセスに当たってそのアドレスを一文字一文字入力するだけの手数すらもかけていないのではないかと思ったのである。ワンクリック一円寄付のメッセージが雑誌や新聞などに掲載されていてそのことに同調したとしても、そのワンクリックに届くまでに細かな英数字のアドレス入力が伴うのなら、きっと今の若者はそこまでしてこの寄付にたどり着くような努力はしなかったのではないのだろうかと思ってしまったのである。

 恐らくは印刷されているモザイク状の小さくて黒い正方形の模様の二次元バーコード(QRコードとも呼ばれている)を携帯カメラで撮影してのアクセスであろうことは想像に難くない。
 そして彼等一人ひとりは果たしていくらの寄付をするのだろうか。ワンクリック一円である。2回か、3回か、それとも10回か・・・。一回につきある程度の時間のかかるコマーシャルを聞かなければならないのだから、彼等のお気軽さから見てとてもじゃないが20回、30回、100回ものクリックに及ぶことなど到底考えられない。

 若者の思いを老人が勝手に、それも悪い方に解釈して語るのは無責任だと思うけれど、そうした行為を難民を支援するための寄付だと呼んでもいいのだろうかと思ってしまったのである。
 軽さが今の時代の風潮だとしても、ワンクリックしてコマーシャルを流した企業が代わりに支払ってくれる一円を、善意の寄付だと言ってしまっていいのだろうか。クリックした本人は、「あぁ、今日もいいことをした」と、寄付した己の善意をその指先の感触に重ねることになるのだろうか。

 つい先日石川県能登地方で大きな地震があり、死者は1人だったが怪我人は300人を超え倒壊家屋も多発したと伝えられた。早速災害義捐金の送金手数料や援助物資の送料の無料化のPRが間髪を入れずにテレビに流れる時代である。送金手数料などがかかるのなら、人は寄付などしないということなのだろうか。

 軽いことが現代なのだと理解できないではないが、小説もドラマも若者の生き方までもが軽くなってきているような気がしてならない。「軽さ」そのものが現代のキーワードになってしまったのであろうか。

 この文を書いているとき、しつこいまでに繰り返し繰り返しどこからか中途半端に頭の中に響いてくるフレーズがあった。それが何からのフレーズなのか、なかなか思い出せないもどかしさに戸惑っていたのだが、突然に分かってしまった。民謡の一節であった。

 「浮いたか瓢箪(ひょうたん) 軽そに流れる 行き先 知らねど あの身になりたや」。越中おはら節の一節である。川面を眺めながら定めなき自らの行末をその流れに重ねる。瓢箪の軽さに込められた切ないまでの思いをこの歌は伝えているような気がする。そしてその思いは決して軽くはない・・・。



                          2007.3.30    佐々木利夫


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