「癒し」全盛の時代である。単なる眺望にも癒しがあり、マッサージ、岩盤浴、昼寝、昼食、ビリヤード、ダーツ、ラジコンカー・・・・、食べることも動くことも何でもかんでもが「癒し」になる時代である。

 色んなことにストレスのある社会である。「どっかで癒しがないとやってられるか!」の分からないではないし、ストレスそのものが生きていることの証でもあるのだから、相応の解消方法も生き抜くための必須のアイテムかも知れない。

 だから「癒し」を商売にしようとする企業が跋扈するのは当然のことではあるのだろう。だが、それにしても企業の目的は利潤の追求である。もちろん最近の企業には環境対策であるとか安全安心などに向けたいわゆるコンプライアンス(法令順守)なども要求されるようになってきてはいるけれど、その前提には少なくとも安定した利潤が要求されるだろう。場合によってはそうしたコンプライアンスを標榜することによって自社製品やサービスの安定的な供給が続いていくであろうことへの期待があるかも知れない。

 そのことはいい。企業はボランティアじゃないんだし、それによって経営者自らの生活費の捻出や出資者への配当、更には企業の拡大再生産なども考慮しなければならないのだから当然のことである。
 ただそうしたことにあまりにも消費者が踊らされてしまっていることになんとく違和感が残るのである。

 年に一度の旅行など、日常からの脱却が癒しにつながる場合のあることを否定するのではない。ただそうしたケースと今流行りの「癒し」とは別の次元にあるのではないだろうかとの気がしてならない。

 仕事が終わって通勤電車へ向かうその駅前でビリヤードやマッサージの店に寄って「癒し」を得る、隣近所の主婦が連れ立ってディナータイムと洒落る、そのことにとやかく言うつもりはないが、彼等彼女等はその癒しと感じる一時を経てやがて自分の日常に帰っていくのだろう。

 つまりそうした行動で「癒し」を得ることができると信じていると言うことは、結局のところ彼等彼女等の住んでいる日常には「癒し」が存在しない、もしくは「癒し」を必要とする状態を逆に作り出している事実の存在さえも示しているような気がしてならないのである。

 ところで、提供される「癒し」はすべて金のかかるものばかりである。もちろんそれは他人が他人のために営業として提供する癒しなのだから有料であるのは当たり前のことだろう。
 ただそうした「癒し」が隙間産業とやらに狙われて段々とスケールの小さなものになってきているのにやたら気づきだしたのは私のへそ曲がりのせいだろうか。その「癒し」はどんどん気軽で手軽でささやかでこじんまりしたものになっていき、しかも概ね安価なものに移行しつつある。

 それはそれでいいじゃないか、と思わないではない。ワンコインサービスとやらで500円玉一枚で癒しが得られるのならそれはそれでいいんだし、そんなことに他人からとやかく言われるのは余計なお世話だと思わないではない。

 それはそうなんだけれど、ただ現代はそこまでしての「癒し」が必要な時代になってきているのだろうかと、それこそ余計な思いに駆られるのである。そして逆に人が抱えているストレスとはそんな簡単な癒しで解決が得られるほどちっぽけなものなのだろうかとも思うのである。
 500円で解消されるからちっぽけなストレスなんだと言いたいのではない。私は「癒し」という言葉が、提供する側も利用する側もあまりにも安易に使い過ぎているのではないかと思うのである。

 「癒し」という言葉が世上に現れてからそんなに時間はたっていないような気がする。それが瞬く間に人々の口の端に上り始め、流行語のように世の中を席巻し、そして瞬く間に中味を薄汚れたものにしてしまったのではないだろうか。
 私にはそうした薄っぺらな「金に頼る癒し」にそれこそ「癒し」を感じる人々の姿が、どこか間違っているような気がしてならないのである。「癒し」と呼ぶ商品やサービスの宣伝文句に人は知らずに踊らされ、催眠商法の幻惑に囚われて錯覚してしまっているのではないかと思えて仕方がないのである。

 そもそもが自分の居場所に「癒し」がなくなってきているのか、もしくはないと思い込んでいるのか、そして仮にそこに「癒し」がないのなら自らの手で「癒し」を創り出し見つけ出そうとする努力さえしようとしないそのことに、現代の「癒し」の裏側にある底知れぬ不安のような危機を感じてしまうのである。

 それとも人は日常的な「癒し」に心がすっかり鈍磨してしまい、自分で見つけ出す程度の「癒し」には「癒し」の効果を感じられなくなってしまい、更に強い「刺激としての癒し」を求めるようになってきているのだろうか。

 今の時代、あらゆることに対して自ら努力をしなくても他者から与えられるスタイルに人はすっかり慣れてしまった。そしてそうした「金で買う癒し」の風潮からは、「与えてくれないのなら買うまでさ」と開き直るそんなうそぶきが聞こえ、そしてその声には買うために必要になっていく拝金万能のつぶやきが重なっているような気がしてならないのである。



                          2007.3.14    佐々木利夫


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金で買う癒し