依存症なんて言葉がいつ頃から広まってきたのだろうか。簡単に言っちまえばこの語に対する私の理解はせいぜいが「アルコール中毒」の横並び程度のイメージであり、どちらかと言えば中年過ぎの飲んだくれの暴力オヤジの印象が強かった。

 ところが最近は色んなものに依存症の語尾がつけられるようになってきている。最初のうちは心理学者や精神科医などが尤もらしく好き勝手につけたペタンチックなも名称だと思っていた。
 もちろん今でもそうした気持ちの否定できないでもないのだが、あることに囚われ過ぎてしまって正常な社会生活を営めなくなっている現象があちこちで見られるようになってきているのは現実のようである。

 そうした囚われ症候群を網羅的に理解しているわけではないのだが、改めて言うまでもない「薬物依存症」や中学生などに表われていると言われている「携帯依存症」、そのほか競馬やパチンコに狂う「ギャンブル依存症」や最近ではインターネットにまで依存症が拡大しているなどとも言われている。そしてそれら依存症は時に暴力をも伴い、時に引きこもりを誘発するなど社会現象として無視できない状態にまでなっているようである。

 さて話し変わって私のことである。最近、10数年の付き合いだった自宅のテレビが突然映らなくなった。もう修理部品の保存期限も切れているような昔の製品だからそろそろ寿命だとも考えられるし、あと数年を残して地上デジタル放送への移行問題もありそれと同時にこのアナログ式のテレビは使えなくなるということらしいから(別売のコンバーターやチューナーで対応できるらしいが)、この故障は天が与えた買換えのチャンスかななどとも思ったりした。

 そんなこんなでテレビなしの我が家での暮らしが始まることになった。事務所にもテレビはあるので一日中テレビなしというわけではない。故障などを契機に家族ぐるみでテレビなしの生活に改めたという人の話も聞かないではないけれど、それほどの覚悟もない私としては、当面近くのリサイクルショップで中古を探すか、思い切ってデジタル製品に取替え電気店で新品を見つけるか、はたまたネット通販で目玉商品でも探そうかと迷うことになる。
 ともあれとりあえず数日はテレビなしの生活をすることになるだろうことを覚悟する。だからと言ってどうってことないだろうとたかをくくっていたのだが、それがけっこうこたえるのである。

 昼は事務所だから、自宅にいるのは概ね夜である。だからといって普段から夜っぴいてテレビのニュースやドラマに噛り付いて生活しているわけではない。特に興味のある番組ならともかく、せいぜいが聞き流している状態であり、時に耳に入ってきた内容によってチラリと画面に視線を向ける程度だと思っていたから、そんなに不便はないだろう。そのはずであった。

 ところがその無テレビ状態がなんとも手持ち無沙汰なのである。真っ暗なテレビ画面が部屋の真正面にあってその対面に我が机と椅子がある。その机で新聞や本を読んだり、時にエッセイの構想を練ったり、音楽を聴いたりしている。だからテレビはどちらかと言えば「ナガラ族」の部類の入るのだから、映っていようがいまいがそれほどの差し障りはないはずであった。

 だが無音、無映像の中で読んだり聴いたりするのは、何かが抜けているような気がしてどうにも落ち着かないのである。
 それでこの状態はテレビ依存症になっているからではないかと気づいた。そんな症例は聞いたことがないけれど、無テレビ禁断症状である。だとすればそうした依存症が発症する原因は日常の習慣にあると思いついた。つまり、「生活の中にテレビが映っている」という状態が当たり前のこととしている生活そのものに原因があるのではないかと思いついたのである。

 そうだとすればその習慣を改考え直し新しい習慣を見つけることこそが、依存症の循環を断ち切る必須の要件になるはずである。
 とは言え映像に打ち勝つだけの新しい習慣を見つけ出すことができるのだろうか。テレビが故障したということは、単に放送番組が見られないのに止まるものではない。けっこう残っているビデオテープの鑑賞も興味あるテレビゲームもその全部が利用できないということである。

 だがそれはもちろん覚悟の上ではあったのだが、どうやら間違いを二つ犯してしまったらしい。一つは新しい習慣として手持ちの蔵書の読み返しを計画したことであった。我が書斎もどきの個室にはスライド式の三段書棚が片側の壁一面に作りつけられており、そこにはSFの文庫本をはじめ文学や心理学、言語学、科学書、その他雑多な本が2千冊以上も積まれている。

 一応は読み終えた本ではあるが、中には数十年来触れたことのないものもある。時代や世代を越えてかつての感動に再来するのもいい思い出になることだろうし、読んだ当時には気づかなかった新しい感動に触れることだってできるかも知れないではないか。
 そう思って選んだのが川端康成の短編集「掌の小説」であった。

 どうやらこの本の選択は私には重すぎたらしい。一話2〜3ページの短編集である。すいすいと読めるはずだし、気軽に日本の文豪に触れるのも悪くないと思ったからである。
 動機は良かったのだが、最近のお気楽な小説のようにはいかなかった。沈んだ夕日を地面から飛び上がって「見える、見える」と叫ぶ子どもの話、混浴の浴場で誇らしげに指輪を見せるために裸で寄り添ってくる少女の話、死んだ妻の少し開いた口が気になっていじくり回しているうちに優しい顔つきに変わっていく男の話し・・・、物語の言葉の一つ一つが練られていて読み飛ばせないのである。

 この本を最初に手に入れたときはもっと気軽に読めたような気がしているのだが、読み返す作品の一つ一つが重いのである。長編小説ならばストーリーを追いかけるぶんだけ気楽なところもあるが、ストーリーなどあっさりと追いついていける短編と呼ぶよりももっと短いこの作品は、そのぶんだけ作者の思いが凝縮されているのである。

 老いが迫ってきているせいかも知れないが、どうもあんまり重い作品には身の中にいささかの抗体ができ始めてきているらしい。つまりはページがなかなか進んでいかないのである。禁断症状の出ている落ち着かず、多少イラついている気持ちの中では、この物語に集中して入れ込むことなど難しいことが分かったのである。

 余りにも集中力の必要な治療薬は、精神の集中できない状況の下では治療薬としての効果を発揮しないのである。もっと気楽に集中できる手段を見つけるべきであった。
 こうした傾向は音楽鑑賞などにも表われてきている。長大な交響曲やオペラなどの長時間ものには触手が動かなくなってきているからである。

 さて治療方針の誤りの二つ目は、簡単にテレビの修理ができてしまったことである。製造から10数年を経て既にこのテレビの修理用部品の保存期限は切れているはずである。
 しかしながらインターネットでこのテレビの型式を検索していたら、同じような症例が見つかり修理可能であると書いてあったのである。

 サービスセンターへ電話すると、修理可能かどうかは検査して見なければ分からないがとりあえず明日伺うとの回答があり、そしてあっさりとしかもそれほど高額でない修理代金で直ってしまったのである。

 かくて以前と変らない日常が戻ってきた。そして私のテレビ依存症は治癒しないままである。僅か3〜4日では依存症の治療などどうやっても無理なのだと改めて思い知らされた事件であった。

 依存症は私の中にもまだまだ残っている。ニコチン依存症は20数年前にとりあえず抜け出すことができたし、マイカー依存症からもどうやら数年前にかろうじて卒業できた。
 しかし、依然として女房依存症にはまだまだどっぷり浸かったままだし、身の回りにはそれを頑固と呼ぶか、習慣と呼ぶか、はたまたこだわりと呼ぶかはともあれ、囚われ症候群みたいな症状はまだまだ残っているように思う。

 そう言えばもうかれこれ1週間ほど酒を飲んでいない。前回の酒と酒との間隔は2週間であった。これほどの間隔になると、断酒10日を過ぎる頃からそろそろ飲みたいなとの思いが日に数回頭を持ち上げてくる。そうなると我が身を納得させる方法は、あと一日我慢、もう一日我慢、そろそろ仲間から飲み会の誘いがありそうだからそれまで我慢、来週月曜日はOB会の懇親会だからあと3日・・・、など誘惑との我慢比べになる。

 日々の生活や仕事にアルコールが影響を与えているほどになっているとは思っていないが、依存症のもっとも基本的な症状は、習慣に対する自己認識の欠如であり、「いつだって止められるさ」という甘い認識である。

 テレビ依存症で実証済みだから迫力のない宣言になってしまうのは承知の上だけれど、あと数日、飲まずに我慢を続けてみることにしようか・・・。それとも久し振り、家で晩酌を楽しんでみようか・・・。



                                  2007.7.13   佐々木利夫


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私も依存症?