最近のNHKは意識的に特集を組んでいるからなのだろうが認知症を取り上げることが多い。それでなくても少子高齢化へとまっしぐらの世の中であり、かてて加えて我が身もその渦中にどっぷりと浸かっているわけだから他人事ではない。そうした番組はNHKばかりでなく民放でも取り上げられる機会が多くなってきているようである。

 そのこと自体はいいのだが、番組編成の視点がどうも介護される老人側にばかり向けられていることに何となく不自然さを感じてしまうのは、またまた私のへそ曲がりせいでもあろうか。

 もちろん介護する側のことに触れていないというのではない。むしろ、大変だ、苦労が多い、老老介護などなど、介護する側の大変さを軽減することを目的としているとさえ言ってもいい。ただそれにもかかわらずその目的が少しずれているのではないかと思えて仕方がないのである。

 例えば離れていた母と娘夫婦が同居する。数年して母に少しずつ認知症の症状が現れてくる。物忘れ、徘徊・・・、果ては娘の顔さえ忘れ、失禁寝たきりへと続いていく。娘も夫もその子供たちも含めてその家族の生活は一変していく。多くは介護する側が介護日記もしくは介護川柳とでも言うような記録を残しており、その悩みやイライラや、時にはホッとしたことなどを紹介しながら番組は進んでいく。

 そうした番組には必ずと言っていいほど、介護や認知症に詳しい専門の医師や介護スタッフなどが参加して、意見や助言や感想などを述べる。そうした人たちの見解のほとんどは次のようなものである。

 「介護する人のイライラも大変さも十分に分かります。でも私の経験した介護の症例のなかには○○のようなケースもたくさん見られます。ですから相手をこちら側の気持ちへ引き寄せるのではなく、優しく接して親身になってこっちの方から相手に近づいていくのです。そうすることで介護される人もゆったりと落ち着いてきて、介護する側にも相手との一体感が生まれ、イライラなどが解消されていくのです」などなど・・・・・。

 言い方や表現方法などは様々だけれど、言っている内容はほぼ同じである。つまりは認知症のお年寄りの意思、歯に衣着せずに言ってしまうなら一見してのわがままや身勝手な行動や結果に対して介護する側が同感し同調して近づいていくのが大切だとする意見である。

 私はそうした意見が間違っていると言いたいのではない。そうすることによって介護される側はもとより介護する人も報われるケースのあるだろうことを否定したいのではない。
 ただ、そうすることによって失われてしまった介護する人の希望だとか目的だとか夢だとかはどうしてくれるんだろうかと思ってしまうのである。

 こうした介護専門家の意見は、あまりにも介護される側へのいたわりの気持ちばかりが強調され過ぎていて、介護する側に対する「介護することが当たり前」という前提を検証することなしに突っ走っているのではないだろうか。
 特定の人に対して、「介護することが当たり前」という前提を無条件に認めてしまうのなら、その特定の人がどうしたらイライラを解消できるのか、場合によっては楽しく介護すめためにはどうしたらいいのかを考え、助言するのはあながち間違いではないだろう。

 だが本当に介護する側の人に向かって「どんなに苦労しようと介護するのが当たり前なのだ」との前提を検証なしで認めてしまっていいのだろうか。
 もちろん介護する側が介護を職業として選んでいる者ならばそれはそれでいいかも知れない。そうした仕事の内容と報酬とがマッチしているかどうかはとも角として、自ら選んだ仕事であるのならば「介護するのが当たり前」を所与のものとして要求するのはそんなに違和感はない。その人には介護の仕事以外に決められた勤務時間なり休暇なり休日があり、自分の趣味に生きたり家族と共に過ごすなど仕事から解放される時間が法律的にもゆったりと保障されているからである。
 その上でどうしたら優しい介護ができるのか、どうしたら相手に喜んでもらえるのか、もっといい介護はないのか、場合によってはどうしたら楽に介護できるかなどを考えていくのはむしろ当たり前のことだと思うからである。

 もちろん介護に関連する職業を選んだからと言って、勤務時間内ならどんな無理難題にも耐え忍ぶべきだとは思わないけれど、それでもその仕事は自らが選びそしてそこから職業人としての報酬を得ているものである以上、相応の義務なり努力を伴うのは当然のことであろう。

 だが多くの場合、介護は身内の問題でもある。その事実を介護を職業として選んだ者と同視することでこと足れりとしてしまうのなら、そしてそのことが何の疑問もなく正しいことだと検証不要の既定事実として世の中が認めるのなら、これまで語ってきたそしてこれから続ける私の意見はそこまでである。私の意見は職業介護者と身内・家族による介護とは別個異質なのものとして理解すべきではないかという前提で成り立っているからである。

 介護する者が介護される者と一緒に歩んでいくことが絶対無比の正義だとするなら、その当然であることを時に楽しく、時に豊かに過ごそうと考えるのは決して誤りではない。ましてやそのことが介護される側、介護する側の双方にとって有意義なことであるとするなら、なおさらのことである。

 だがしかし、そうでない立場を考えることが間違いであり、そもそもそんな風に考えること自体が誤りなのだと決め付けてしまっていいのだろうか。現代の介護を巡る姿勢は余りにも介護される者との密着さにこだわり過ぎ、介護する側をないがしろにしているのではないだろうか。

 介護する側だって人間である。神様や天使じゃなく、ごく普通のあなたと同じような人間である。美味いものも食いたいし旅行にも行きたい。子育てが一段落したんだから好きな絵の勉強もしたいとか、なんなら陶芸なんぞに洒落るのも悪くないと考えているかもしれない。
 「介護を楽しく」という選択肢も一つの方向としてはあるかも知れないが、そのために例えばその人の夢や希望や信じる人生がなおざりにされ、はたまたつぶされ、破壊され、諦めざるを得なくなったとしても、それは「介護なんだから仕方がない」ことだとして無条件に承認しなければならないものなのだろうか。

 時はいつの場合もあらゆる人に同じように降りかかる。介護する側へも、される側へも、時は容赦なく老いの刻印を打ち込んでいく。だからこそ老人に対して「老後を安心して楽しく」が大切なキーワードになっているのではないのか。

 「介護する」とは、その人のために自分の時間を使うことである。心を使うことである。そのために使った時間や心を取り戻すことなどできはしない。あれもしたい、これもしたい、こんなこともしてみたい・・・、そうした思いを抱くのは人として当たり前のことであるにもかかわらずである。

 介護は三日で終わるのではない。一ヶ月で終わるものでもない。一年、二年で終わる保証すらない。場合によっては介護する側の方が先に疲れ果ててしまうことだってないとは言えない。ふと気づいた時には、かつては充実していた気力も体力も萎えしおれてしまっているかも知れない。
 それは決してデイサービスなどで「今日一日暇をあげますから、どうぞお好きなことをやって日ごろのストレスを発散してください」の一言で解決される問題ではないのである。

 先日(3.22)の朝日新聞の読者の投書である。数日前に載っていた投書「徘徊する夫に不安がいっぱい」に対しての意見であった。認知症対応型の共同生活事業所というグループホームに勤務する介護福祉士である若い女性はこんな風に自分の意見をまとめていた。

 「24時間つきっきりの介護は大変でしょうが、身近な方の介護が一番です。奥さんに介護してもらえるだんなさんは、だれよりも幸せな方だと思います。」

 それはそうかも知れない。だがそれは「介護されるだんなさん」の視線を知ったかぶりで想像しただけであり、全てを投げ打って介護することが身内としての当然の正義だと思い込んでいる職業介護福祉士の無責任な思い込みや思い上がりが抜けがたく染みこんでいるように思えて仕方がないのである。

 少なくともこの投稿者は、徘徊する夫に24時間拘束される妻、そして当の夫とは何の感情的な交流もないまま自らの夢も希望も潰えてしまっている妻の絶望的なまでの不安には、同情するだけで聞こえない振りをしているとしか私には思えないのである。

 私も経験がないので必ずしも断言はできないのだが、介護はする側される側の間に普通の人間関係に見られるような打てば響く一対一の反応を期待できるものではないだろう。時にかすかなゆらぎのような反応を感じることがあるかも知れないが、介護する側にとってはまさに一方通行そのものの世界なのではないだろうか。

 そして今日(3.25)の朝日新聞「ひととき」欄への投稿である。介護中の父を母と一緒に床屋へ連れて行った娘は、鏡に映るおしゃれを忘れた女性二人のやつれた姿に呆然とするのである。知らぬ間に失ってしまった数々を、その人のせいだと言い切ってしまっていいのだろうか。
 そして冷たいことを承知で言うのだが、そうした様々に人はどんな場合もきちんと向き合って行けるものなのだろうか。



                          2007.3.25   佐々木利夫


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