この歳になったって、知らないことなど山のようにあることくらい何の不思議もないことだし、そのことを自分の身に確かめたところで慙愧に耐えないなどと身もだえするほどの思いに駆られることもなくなった。

 「貝寄風(かいよせ)」・・・・、だがそれにしてもこの言葉には少し驚かされた。私の記憶の中にこの言葉は片鱗としても存在していなかったこと、そしてこの言葉に想像にしろ何のイメージも湧いてこなかったからである。
 普通、日本語なのだから、例え誤った理解にしろ言葉からはなんらかの情報が伝わってくるはずである。
 にもかかわらずこの言葉が私の想像にしろ、観念的にしろ、まるで理解の外だったことに驚いたのである。そしてこの言葉の意味を知ることで、この言葉を使った中学生に心なし嫉妬したのである。

           貝寄風や 親に見せない その手紙 (中3 女子)

 この歌は某私立大学が募集した青春俳句大賞、中学生部門の入賞作品である(朝日新聞、1月14日)。

 調べてみて分かったことは、貝寄風とは陰暦2月22日頃に吹く季節風のことで、貝殻を浜に吹き寄せる風との意味であった。半日か一日で吹き止みそのあとは春らしいおだやかな日がくると考えられている。

 陰暦2月22日は聖徳太子の命日とされ、大阪四天王寺ではその御霊をなぐさめる行事として精霊会(しょうりょうえ)が行われていた(現在は5月に行われているようである)。その日は貝殻で作った造花を飾ることになっているらしいのだが、その材料となる貝殻は近くの住吉の浜に打ち上げられたものを使ったようである。そのため、精霊会の前後に吹く風のことを特に貝寄風と呼んだとされている。

 陰暦を太陽暦に変換する方程式を私は知らないのだが、陰暦2月22日は今年ならば4月9日である。通常一月半ほどの違いだと観念的に理解しているから、恐らく一般的には三月の末から四月初めにかけての季節になるであろう。
 貝殻を浜辺に打ち寄せるほどの風のイメージからして、さわやかな春風ではないだろう。髪を乱し時には波頭が崩れるほどの強い風のような気がする。冬の名残りと呼んでいいのかも知れない。

 貝殻が拾えるような住吉の浜は、今ではもう開発が進んでしまってすっかりなくなっていると聞いた。少女の髪を乱すその冬の名残りを、彼女はきっと海岸からは離れた街の中で頬に受けているのだろう。
 春の予感を告げるその風に、多感な少女は何を感じているのだろうか。密かで小さな恋、もしかしたら友達にも伝えていない恋、親にも見せないその手紙には、一体どんなことが書かれているのだろうか。

 恐らく私がこの言葉を自分の表現方法の一つとして使うことはないだろう。この言葉はあくまでも春先の西風で打ち寄せられた貝殻を拾えた時代の、その地方におけるその風の意味を知っている人のみに許された表現であり、そうした風を知らない私にとっては単なる知識としての言葉にしか過ぎないからである。

 この言葉は一種の方言だと言っていいのかも知れない。そのことを理解しつつもこんなにも美しい表現が日本語にはあったんだと教えてくれたこと、そしてその言葉を今でも中学生の女の子が、日常語ではないにしても俳句の中に使ったことになんだかとても嬉しくなったのである。
 この言葉の存在を知ったことで、なんだかとても豊かな気持ちになれた、今日はそんな一日だったのである。



                            2007.1.17    佐々木利夫


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貝寄風(かいよせ)