猛暑だの温暖化だなどと書いた舌の根も乾かないうちに、まるで見えるかのように秋風が涼しさを運んできた。そしてそうした気配をいち早く察したのか、街中にもトンボの姿をチラホラと見かけるようになってきた。トンボの羽化の時期はもう少し早いはずなのだが気温の高いシーズンは山の高みに潜み、外気温が下がってくるにしたがって里の方へと降りてくるのだと聞いたことがある。
 まだまだ残暑と呼べるほどの暑さが続いているこの頃だけれど、そうした季節の変化をトンボもまた敏感に感じ取っているようである。

 ところでもう4年ほども前になるが、事務所の近くにある三角山へ登ったときに見かけたウスバキトンボ(薄羽黄トンボ)についてこの欄に書いたことがある(別稿「ウスバキトンボ」参照)。このトンボは4〜5月頃に東南アジアで発生し、産卵、羽化の世代交代を繰り返しながら夏の終わり頃に北海道へ到着するのだそうである。しかし、成虫も卵もその全部が寒さに弱いために越冬できないことから北海道が行き止まりになって絶滅してしまうと言われている。

 私はそのことを別稿の中で「現象的には種の保存とは無関係なレベルで、このトンボは何百年も、何千年もの間、振り出しに戻されながらも、北へ・・・、北へと報われることのない悲愴な飛翔を続けてきた」と書いた。それはこのトンボの生き様を無駄で無謀な命への挑戦と感じたからであった。

 ところが最近そうした行為を単に無謀と呼ぶのは間違いなのではないかと思えるようになり、その答を表題の「死滅回遊魚」に見ることができるのではないかと思い始めてきたのである。
 「死滅回遊魚」とはいかにもおどろおどろしい名称だが、この魚は南から日本列島に向かう黒潮に乗って運ばれる熱帯の魚の総称である。サンゴ礁のある南の海で産み落とされた卵や孵化間もない魚は、この海流に乗って数ヶ月をかけて日本列島へと近づき、やがて冬の海水の冷たさに耐えられずに死滅してしまうと言われている。

 「回遊魚」と名づけられてはいるものの、例えばまぐろやさんまなどの多くの回遊魚と違って餌を求めて自らの意思で海洋を巡っているのとは違って、単に海流に乗って漂っているのが事実らしい。だが黒潮は北を目指すだけで決して南へ回帰することはない。北へ向かう一方通行の流れである。
 それでもこの魚は産卵された地域に止まることなく、海を漂うことの中に種としての生存手段を見出したことに違いはない。

 死滅回遊魚と呼ばれるのは、単に黒潮を漂うことに対して名づけられたと言う意味以外に、例えば伊豆半島や房総半島沖などでそうした流されてくる魚群、例えば「チョゥチョゥウオ」などを目的に捕獲したり鑑賞したりする人々が多く、それらのマニアの仲間内での慣用語としても使われているらしい。

 ともあれ水温が14度以下になると「死滅回遊魚」のほとんどはまさに「死滅」してしまうのだそうである。ただ、地球温暖化の話題がかまびすしい昨今、そうした地球環境の変化も考慮に入れると、この死滅回遊魚の生態も別の意味を持ってくるのではないだろうかとふと感じてしまったのである。

 地球の現在はうろ覚えなので間違っているかも知れないが、「間氷期」,にあるとの説のあることを記憶している。地球はこれまで何度も氷河期を繰り返してきて、現在もその繰り返しのちょっとした隙間にあるという意味である。「第四間氷期」は阿部公房のあまりにも有名な小説だが、学説ではこれまでに地球は4回の氷河期を経験しているらしい。つまりはこのままでいくと、地球はあと数万年かで新しい氷河期に突入するということである。

 もちろん人類というとてつもない生物がそうした地球そのものの環境サイクルを変えてしまうほどにも巨大化してきているから、ことはそれほど簡単には進まないかも知れない。それでも地球そのものが自然のサイクルか、はたまた人類という身勝手な種のわがままのせいかはとも角、生物の種の存続に影響を与えるほどにも現在の環境を変えていく要素が現実のものとなっているのは事実のようである。

 そうした時、どんな環境にも生き抜こうとするのが種としての生物の義務である。恐らく人類だって、この無防備な裸の存在にもかかわらずここまでに生き残ってきた背景には、どれほどの種としての努力を重ねてきたことか。
 クロマニヨン人であるとか、ネアンデルタール人、北京原人などなど、そのほか様々の原人の化石が発掘されているが、現在の人類につながる種はたった一つで、そのほかの原人はことごとく絶滅してしまったという説を聞いたことがある。

 「生き残れ・・・」、これこそが種に与えられた唯一無比の指令である。氷河期が近づいているのか、はたまた温暖化が続いて北極海の氷が融け出したり、地球の砂漠化が現実のものとなるのかそれは分からない。ただ平穏な時代が何万年も続くなど幻想であることは事実のようである。

 死滅回遊魚の生存方法は、少なくとも知る限り無駄な生き方である。無駄と知りながら飽くことなき回遊を繰り返すのは無謀と言っていいかも知れない。ただ、何千年か何万年後かは分からないけれど、気候がすさまじく変ってしまう時代がやがて来るのだとしたら、そのときこそが回遊魚の出番である。

 熱帯の海水が生存できないほどにも熱くなり、仮にオホーツク海やベーリング海がハワイのように温暖で穏やかな気候に変化してしまう可能性があるのだとしたら、こうした無駄な生き方に賭けることのなかったほとんどの種は、その無駄のない合理性のゆえに逆に絶滅の憂き目に会うことになってしまうだろう。

 昆虫や鳥や哺乳類名などに「死滅回遊魚」のような名称のつけられた種が存在するのかどうか、寡分にして私は知らない。だがウスバキトンボのようなあまりにも明らかな無謀な生き方は、この死滅回遊魚の生き方に非常に類似している。
 だからこの「死滅回遊魚」の話を聞いたとき、ふとウスバキトンボの生き方もまた、壮大でしたたかな種を残すための戦略ではないのかと感じてしまったのである。

 そしてそれと同時に、そうした生き方が種の保存の方法として適切なのかどうかはとも角として、人類にはそうした野生的な「生き残り」のシステムが余りにも目に見えるかのように失われてしまっていることを、複雑な思いで感じてもしまったのである。



                                2007.8.28    佐々木利夫


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死滅回遊魚