「風が吹けば桶屋がもうかる」という諺がある。諺というよりは一種の落とし話みたいなものだとは思うけれど、とりあえずいくつもの話が因果関係の連鎖でつながっているものの、その因果の確率が低いために連鎖の結果が信じられない事象に結びついていることの面白さを狙ったものである。
 だからそれはジョークなり、笑い話として構成されているのならそれはそれで笑い飛ばすことができるから特に問題はなかろう。だが、そんな話が現実の問題として提起されるとなるとそう簡単に納得できるものではない。

 12月始めの新聞の投稿である(’07.12.2 朝日)。「あめはれくもり」と題する投稿によるコラム欄がある。そこに「はらっぱとすみっこ」と題した記事が掲載されていた。

 「子どもたちは、はらっぱが大好きだ。休み時間、校庭へ一目散に走り出していく。そして、すみっこ。子どもたちは、狭いところも大好き。塀と建物の間、押入れのすき間・・・・・・。すき間が子どもたちを吸い込んでいくのだろうか。」

 この記事を読んで、自分の子ども時代をふと思い出し、そう言えばそうかも知れないななどとどことなく納得するものを感じてしまった。そうした空間にはどことない子供の夢みたいなものが詰まっているような気がしたからでもある。このひとりの税理士事務所のことを、時に秘密の基地の延長だなどと思っているのだって子どもの頃の夢の続きなのかも知れないからである。

 そしてそうした傾向は私の孫にも引き継がれていた。押入れの布団のすき間、私の部屋の三段式の書棚の二列目のすき間、食卓テーブルの下、応接セットの椅子を組み立てて作った一人しか入れない小空間などなど、いかにも子どもはすみっこが大好きである。

 だがこの記事を読み進めていくうちにどうにも納得できない記述にぶつかってしまった。それは学校における子供にとっての「すみっこ」を図工室と言い切ってしまった部分である。筆者が図工関係の仕事をしているらしいことは投稿者の肩書きから分かった。そして彼は「すみっこ」イコール「図工室」との前提をもとに延々と図工の必要性、そして図工専科の先生の必要性を述べるのである。

 図工専門の先生が小学校に必要なのかどうか、そのことについて私には論ずるだけの知識はないからここでは触れない。そして同時にそうした先生の存在が必要なのだと主張する者、信じている者がいること自体についてもあえて反論しようとは思わない。数学や理科の好きな生徒に育てるための教員の必要性が論議されたり、いじめをなくするための授業時間が必要だとする意見など、さまざまな人たちが、さまざまな意見を持つことを否定しようとは思わない。

 だが私はこの図工専科の先生が必要であるとする根拠を、彼が「子どもたちのすみっこ好き」に持ってくることに違和感を持ったのである。
 その違和感の根拠は彼が「すみっこ好き」と「図工室」との関係をなんら証明することなく結びつけてしまっているからであった。彼の論拠は「学校のはらっぱは、校庭と体育館だ。では、すみっこは、どこだろう。それは、図工室と言いたい。」、これだけだったからである。

 こうした理屈付けが通るとするならば、彼の論述にあるとおり校庭専科の先生も必要になるだろうし、体育館専門の先生も必要になるだろう。しかも、本当に子どもはすみっこ好きの結果としての図工室が好きなのだろうか。

 小学生から「うつ」にかかる生徒がいるのだという。いじめや様々な原因から登校拒否になったり、登校しても保健室で過ごす生徒も多いのだと聞いた。登校拒否なら、その子の「すみっこ」は自分の家の自分の部屋なのではないのか。教室へ向かうことのできない子どものすみっこは保健室なのではないのか。音楽好きの子なら音楽室、理科好きの子どもなら理科室がすみっこなのではないのか。いやいや、そもそもそうした部屋がすみっこだと言い切れるのだろうか。

 だから、どうして子どもにとってのすみっこが図工室であることの説明を欠いたまま図工室と断定し、その上に立って図工専科の先生が必要だなどとする結論を誘導することができるのだろうかと思うのである。

 最初に述べた「風が吹けば桶屋がもうかる」は、風、砂ぼこり、目に入る、盲人増加、三味線引き、三味線の胴皮の不足、猫の不足、ネズミの増加、桶をかじる、桶が売れると続く話だから、この図工室の話とは必ずしも結びつくわけではない。

 だが「因」と「果」を結びつけるにはそこに納得できる筋道が必要なのではないかと思うのである。単なる思い付きでの因果関係ではひとりよがりの独断に陥ってしまい、どうにも説得力の不足した説明、そして時に誤った結論を引き出すことにもなってしまうのではないかと思うのである。
 そうした因果の結びつきを軽視していると言う意味で、風と桶屋の話も、すみっこと図工室の話もつながっているのではないかと思ったのである。

 そして私は、この投稿者の「子どもははらっぱとすみっこが大好き」という考え方がとても素敵に思えたものだから、それを無理やり図工室に結びつけてしまっていることに、宝石を道端に捨ててしまったかのような残念な思いに駆られているのである。

 ある状況と特定の結果とを自分の直感や好みなどで結びつけてつまう危険は、こうして数多くのエッセイを書き散らしている私自身にも存在していることは否めない。
 「〇〇〇」はもしかしたら「×××」なのではないだろうかとの前提を置き、これらの言葉に「もしそうだとするならば・・・」との接続詞をつけてしまうことによって、とたんにその〇と×の因果関係は確実絶対無比の揺るぎないものになってしまう危険は、人の陥りやすい罠である。

 この論者もこうした罠に陥ってしまっているのではないだろうか。「子どもはすみっこが好き」、そして「すみっこは図工室」とつなぐことで、図工室はとたんに子どもの夢を満載したおとぎの国になってしまう。そうなってしまうと図工室の充実は、健全で豊かな子どもを育てていくための何ものにも代えがたく、しかもいくら投資しようとも決して無駄になることのない宝石箱に変身してしまうのである。

 そして更に二日後の読者の投書(朝日、12.4)は、政府税調が女性の就労を妨げている原因の一つとして配偶者控除の縮小を検討していることに関し、そうなると多くの女性が働きに出ざるを得なくなる、その結果家庭での生ゴミの庭埋め、重曹を使った掃除、地産地消の努力、水道光熱費の節約、化学物質に頼らない生活の選択などといった女性の活動が停滞し、その結果エコ活動に手が回らなくなる状態の継続になる、と指摘していた。
 ここには政府税調の配偶者控除が女性の就労の阻害要因になっているとする考え方の飛躍もさることながら、投書した主婦の意見の中に風と桶屋の論理があまりにもはっきりと出ているような気がして、なぜか苦笑してしまったのである。



                          2007.12.12    佐々木利夫


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風が吹けば