憲法改正投票法案が国会審議を賑わしている。まだ憲法を改正のために行われる国民投票の要件や方式を定める手続法を制定しようとしているだけで、改正すべき憲法の内容にまで論議が及んでいるわけではない。ところで日本の現行憲法は明治憲法に次いで敗戦直後の昭和21年(1946年)に制定されたものであり、制定後まだ一文字一行たりとも改正されたことはない。

 それは憲法改正の手続きが非常に困難なものになっているからである。通常法律の改正は国会での決定に委ねられており、その内容は決議する国会の成立と決議内容に賛同する議員の割合により決せられる。通常は総議員の三分の一以上の出席により国会そのものが成立し、出席した議員の過半数で議案が決せられることになるのである(憲法56条)。

 これに対し憲法の改正についてはこれとは異なる手続きが憲法そのものの中に定められている。憲法は自らの改正を第九章に独立して定め、「衆参両議院の総数の三分の二以上の賛成による発議、そして国民投票による投票者の過半数の承認」を要件としたのである(96条)。

 「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」(41条)にもかかわらず、憲法はその改正を出席議員ではなく総議員の三分の二以上の発議、更に国民投票結果に委ねたのである。

 こうした改正手続きの厳格さがこれまで憲法の改正を困難なものにしていたのであるが、戦後の昭和21年の制定から60年を過ぎて日本の国内事情も世界情勢も大きく変わってきており、必ずしも現行憲法が時代にそぐわない面も多くなってきていると言うのが憲法改正論者の基本的な意見である。

 どこがどういうふうにそぐわなくなってきているのかは、政治や行政などなどさまざまな意見のあることだろう。ここでは一番分かり易い9条について考えてみたいと思う。

 9条は誰でも知っている戦争放棄の規定である。「知ってる、知ってる、くどいほど聞き飽きている」、と思うかも知れないが、それほど長い条文ではない、念のため引用しておこう。

 第九条@ 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

A 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 これだけの文章であっても、憲法学者が述べるならばゆうに数冊の論文ができるのかも知れないが、少なくとも分かり易い文章で綴られており、恐らく中学程度の学力でも十分に理解できる内容になっているのではないだろうか。専門的な法律用語で規定しなければならないような特殊な内容ではない。誰にでも分かることこそが憲法としての大切な用件でもあろう。

 日本がこの憲法を制定してからも国際紛争は途切れることなく続いてきた。そうした中で日本はこの憲法の規定を盾に金銭的な負担はともかく、軍隊の派遣などは頑なに拒んできた。極端に言えば町内会の清掃に金は出すが自らは参加しないと言うのと同じではないかと言われるまでの頑なさで拒んできた。

 我が家の家訓がそうなっているからとの理由で、あらゆる労力の提供を伴う協力、派遣、支持などを拒んできた。そうしたやり方に対して「そんなんじゃ今時通じないよ」と言われればその通りかも知れない。憲法改正論議の中には、そうした国際世論からの批判に対する思惑も含まれている。

 私もそう思う。金は出すが血は流さないと言うのはあまりにも身勝手が過ぎるのではないかと、世界中の国から批判されるのも無理からぬことであるとも思う。もし私が町内会の役員で、会員の中にそんな身勝手な言い方をする人がいたら場合によってはその人を町内会からボイコットしてしまおうかと提案するかも知れない。町内会の問題は町内全体の問題、場合によっては全市的な要請として全員が協力して行うべきものであり、親父の遺言があるから出られませんなどの意見が許されるとは到底思えないからである。

 それにもかかわらず日本はこれまでそうした批判に耐えてきた。憲法があるんだから軍隊は持てません。軍隊がないんだから血を流す作戦に参加したり派遣したりすることはできませんと言い続けてきた。目的を「自衛」のためと呼ぶにしろ武力を持った自衛隊が現に存在しているにもかかわらずである。

 だから逆に言うなら日本は卑怯である。日本以外の多くの国が他国のために血を流すのは自国のための意味もあるかも知れないが多くは国際平和への貢献を拠りどころとしている。国際平和が自国の平和にもつながるのだと信じているからである。
 そうした中にあって日本の立場は卑怯である、身勝手である。そしてその言い訳の原点としている憲法9条そのものが非常識である。

 と、ここまで思ってきて、そのどこが悪いんだと開き直る気持ちも出てきている。確かに憲法9条は身勝手である。町内会の清掃作業に出席しないことを正当化するかのような根拠を与える規定はどうしたって非常識である。他の国々が一生懸命汗を流し血みどろになって戦っているときに、たった一条の文言を盾に参加できませんなどと拒否するのは、そうした他国に国際社会の一員として許されないことだと思われても仕方がないほど非常識である。

 だがそうは言いつつも、だからっていいじゃないか、非常識だっていいじゃないか、身勝手でもいいじゃないかと、なんだか私には思えて仕方がないのである。肩身の狭い思いはするけれど、そうした狭い肩身のなかに小さくなって縮こまっていることだってあながち悪いことじゃないんじゃないかと思うのである。

 他国の憲法をそんなに勉強したわけではないから自信を持って言えることではないのだが、これほどはっきりと戦争の放棄と軍隊の不保持を憲法で宣言した国は日本以外にはないのではないだろうか。
 だとするなら、この身勝手な9条を持つ憲法は世界に誇ってもいい憲法なのではないのだろうか。どんなに国際的に批判されてもいい、ひたすら小さくなって頭を下げるばかりでもいい、「申し訳ありません」を繰り返すばかりでもいい。
 「我国にはこんな憲法があるのです。憲法は必ず守らなければならない国民が作った国としての規範なのです。どんなに批判されても憲法に違反した行動をとることは許されないのです」、そう言って国際社会をくぐり抜け泳ぎ回ることも必要なことなのではないだろうか。

 他国としては、「国際協力の可能な憲法に改正すべきだ」などの意見や圧力を示すことはあり得ても、憲法を無視せよとまでは言えるはずがない。家訓や親爺の遺言に伴う拘束は、憲法として格付けされることによって揺るぎない地位を得ることができるようになるのである。

 国際協力を町内会の清掃に例えるのは適切でないかも知れないけれど、町内会の清掃に出てこない人を非難する背景には、町内は黙っていても必ず汚れるものだ、集団で時を決めて一斉に清掃しないと住むに耐えないほど汚れてしまうものだとする思い込みがあるのではないか。

 住んでいる人たちも町内を通過していく人たちも、そうした人たち全員がゴミを捨てない、気づいた時にはゴミや落葉はすぐに拾って始末するというに変わっていくのだとしたら、その町内は清掃日を決めて人を集めること自体必要がなくなるのではないだろうか。
 そうしたゴミによる汚れと戦争や貧困とは結びつかないのだろうか。結び付けてはいけないのだろうか。そんな願いを憲法9条に込めることは荒唐無稽な思いなのだろうか。

 だからと言って非常識そして身勝手であることの上にふんぞり返っていることも誤りだろう。そうした他国とのギャップの分だけ日本は謙虚になって、そうした隙間を埋めるための努力が何にも増して必要となるだろう。そしてそのことはまた国民一人ひとりが考えいかなければならないことだし、更には外交という舞台での地道な忍耐強い努力の積み重ねもまた必要になっていくことでもあろろう。

 そして我国の9条をいつか他国がその国の憲法の中に組み込むことができるようになっていくとすれば、世界平和だとか国際平和などとなんだか実現不可能な夢物語みたいに思えている言葉さえもが少しずつ現実のものになっていくのではないか、そんな気がしてくるのである。

 60年を経て憲法にも当初予想できなかった人権であるとか制度などのほころびが目に付くようになってきていることも否めない。だから憲法を時代に近づける努力が必要になってきていることを否定するつもりはない。
 だが、この9条だけはその非常識さゆえにこのままの形で残しておきたい、いや、残しておくべきだと思うのである。それが非常識な9条を持つ国の、非常識であるがゆえの国際社会に対する日本国民の宣言ともいうべき義務なのではないのかとさえ思うのである。

 「戦争で得たものは憲法だけだった」。24日の朝日新聞の天声人語は、つい先日亡くなった作家城山三郎の言葉としてこんな一言を引用していた。

 あなたはもし望むなら清掃日なしでもゴミのない町内を作ることができると信じますか、いやいや信じられますか、信じることができますか・・・・・・。なるほど、なるほど・・・・。



                          2007.3.24    佐々木利夫


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非常識な憲法9条