喫煙者の肩身がどんどん狭くなってくる昨今だが、わたし自身も20数年前まではけっこうなヘビースモーカーだった。禁煙が成功してタバコ嫌いが身についてしまったからこんなことを言えるのかも知れないのだし、理屈にもなんにもなっていないことを承知のうえでのことではあるのだが、私は喫煙者に向かって発信するこんなジョークがけっこう好きである。
「どんどん吸ってもかまわないよ、でも吐き出すのはやめてくれ」
吸うのはその人の自由だが吐き出された煙は他人への迷惑だと、この言葉はあからさまに言っているのだが、吸うだけで吐き出すなという理屈に合わない要求がなんだかとても小気味良く感じるのである。
もちろんこんな話はせいぜいが馴染みのスナックでのほろ酔いに任せてのジョークであり、まじめな顔で主張したことなどない。
しかしこのジョークは、どこかで喫煙が自分だけでなく回りの人間の健康をも巻き込んでいる事実をけっこう正確に射止めているような気がしているのである。
そしてこのことは吐き出す煙(正確にはタバコの先からの副流煙も含まれるのだが)が、それを意識するにしろ無意識にしろ他人に迷惑を強制していることに、つい先月まで続いていた選挙運動の連呼を重ねてしまったのである。
4月の統一地方選挙が終わって、事務所のある路地裏まで響いてきた選挙カーの騒音も一段落して静かさが戻ってきている。そうは言っても7月には参議院選挙があると聞いているからしばらくしたら再び同じような状況になって連呼連呼の騒音が再び繰り返されるのかと思うとなんだか今から憂鬱になる。
選挙運動はそれこそ言論の自由に裏打ちされた立候補者の権利であり、同時にそれを聞いて判断する有権者にとっての重要な判断材料でもある。
言論の自由は単に憲法で定められていると言うこと以上に、現在の民主主義の根幹をなすものであることに異論はない。言論の自由がきちんと守られていたならば、恐らく60年前の戦争は決して起こらなかっただろうし、守られてきたからこそ戦後日本の繁栄や今の平和があるであろうことも素直に理解することができる。
だから立候補をした者がどんなことを考え、どんなことを書き、どんな主張を訴えたとしても、選挙としての法定された制限はあるだろうが基本的には自由だし尊重すべきものだと思う。
だが、だからと言って、そうした考えを他人に無理強いするのは間違いではないかと思うのである。天下国家を論じ、世界平和や住民の福祉の実現についての自分の主張を熱く語るのもいいだろう。
ただそうした行為を言論の自由と呼ぶのと同様に、それを聞きたくない人が聞かないことも自由の中に含めてもらわなければ片手落ちである。
選挙、街頭商業放送、携帯電話の声高な通話、電車や車の騒音・・・。いやいや音だけではない、乱雑な街並み、電柱や壁に見境なく張られたポスター、壁や歩道橋へのいたずら書きなどなど、勝手に飛び込んできて無理強いさせるの行為もまた言論の自由を語る上でどうしても含めなければならない考えなのではないだろうか。
もちろん騒音に対して窓を閉めるという対策をとることはできる。だがそれを「聞きたくないと思う人」にだけ強要しそれでこと足れりとする考えはどこか変だと思うのである。テレビやラジオならボリュームを下げるか、場合よってはスイッチを切ることで解決できる。
だが騒音のほとんどはそうしたコントロールのできない場合がほとんどである。だからこそそれを騒音と呼ぶのかも知れないけれど、窓を閉めても連呼は否応なく部屋へと飛び込んでくる。耳をふさいでも音は止むことはないし、目を閉じて街を歩くことなど要求すること自体無茶である。
受忍限度論という法律用語がある。迷惑だと思っても社会通念上一定の限度まで人は我慢しなければならないという理論である。その理屈は分かる。一人ひとりが自分勝手に我慢できる限度を設定し、それを超えたからといっていちいち禁止や中止を主張し始めたら、およそ社会秩序そのものが崩壊してしまうであろうからである。
それはそうなんだけれど、それをおせっかいと呼ぶかはたまた余計なお世話と呼ぶかは別にして、「ほっといてくれよ」とか「静かにしておいてくれよ」と思うようなことが、なんだかこの頃どんどん増えていっているような気がしてならない。
受忍限度の範囲は受け手の思いに関係なく膨らんでいくばかりである。
そしてそうしたおせっかいは単にタバコの煙や騒音に対してだけではなく、趣味であるとか好みであるとか、さらには人生の目標であるとか生き方などと言った、個々人が自分の意思で決定しなければならないことがらにまで、隙間狙いだの教育だの親切だの徳育だのと言った正論そのものの覆面を被りながら静かに侵蝕してきている。
2007.5.11 佐々木利夫
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