先週12日に公示されて29日投票の参議院選挙が始まった。今年に入ってj松岡農水大臣の事務所費疑惑と前代未聞の大臣の自殺、憲法改正などを視野に入れた国民投票法の成立を巡るあたかもその法律だけで憲法が改正されてしまうかのようなヒステリックな意見が賑わった。だがそうした政治と金、憲法改正などそんな議論などどこかへすっ飛んでしまったかのように社会保険庁を巡る年金問題ばかりが街を賑わしている。

 そして国会が解散して参議院選挙が始まってすぐ、自殺した松岡農水大臣の後任として就任した赤城農水大臣の同じような事務所費問題が持ち上がった。彼の選挙事務所が実家になっており、しかも多額の費用が内訳不明のまま計上されているとの問題である。

 政治資金規正法などの法律的には事務所費用についての領収書であるとか科目内容の内訳などの明細を示すようには規定されていないとのことである。だからそのことを根拠に本人は法律上の義務のない開示を拒否している。
 テレビも新聞もそうした開示拒否について、「隠したいことがあるからではないか」と責める一方で法律上の義務のないことなど頭から考えようとしない。

 私も実家の事務所としての使用が事実であるなら、基本的な事項については説明したり開示したりするほうがなんとなくすっきりするのではないかと思う。そんな風潮があるからこそ一層マスコミも書き立てるという構図になっているのだろう。

 だが私は「ちゃんと内容を示した説明をしたほうが疑惑も晴らせるし参院選挙への対策にもなるのではないか」と思う一方で、拒否の背景には説明や資料の発表などによってマスコミが重箱の隅をつつき出すのではないかというマスコミ不信の思いが色濃く反映されているのではないかとも感じているのである。

 ペンは剣よりも強しと言われたのは、もうカビの生えるほどにも昔のことである。だが、そうした事実をマスコミは自戒の語として自らに定着させる努力を怠った。そしてそのツケが今、救いがたいまでに蔓延してきている。

 マスコミが取材の行き過ぎや誤報や権利侵害について、時に「我々も自戒しなければならない」などと反省のコメントを書くことはある。時に謝罪文を掲載することすらある。それが本当に当該文章を書いた記者なり編集者なりの個人の見解を超えて、報道機関としての組織としての反省になっているか謝罪になっているのかについては、繰り返される同じような羅列を見るにつけほとんど信用ができなくなっている。

 現代にとって情報の入手をマスコミに頼らざるを得ないことは論を待たない。同時にそのマスコミが不信にまみれていることもまた事実である。
 だから私はマスコミを事実の意見との二つに分けて考えることにしたのである。例えば「〇町〇丁目で火災があった」、「政治家〇〇が逮捕された」という報道がある。
 私はその事実だけを信じるのである。解説じみた意見や論調を私は信じないことにしたのである。

 このことは私にとっても不幸なことであるし、そのぶんだけマスコミ自身にとっても不幸なことでもあろう。だがマスコミ不信は単なるワイドショーや過激な取材方法によるものだけではない。報道そのものが本来あるべきマスコミとしての視点を外れているのではないかと思えて仕方がないのである。
 それはマスコミ自身が「国民の意識」と唱える極端なまでの代弁意識への思い込みである。

 行政や企業の手薄さや行き届かない点を批判し、場合によっては対応に穴の開いていることを指摘することも必要だろう。だがしかし、同時にきちんと対応している部分や普通では気づかなかったであろう部分にまで光の当たっていることなどに目を向けることもマスコミの大切な仕事だと思うのである。

 つい数日前、中国で肉まんの肉の代りにダンボールの苛性ソーダ漬けしたものを刻んで詰めていたとの報道が映像つきでなされた。内容が内容だけにあっと言う間にマスコミにその情報が広まった。しかもその報道たるやそうしたダンボール肉まんの製造は業界内では常識化していただの、「俺はこの肉まんを何年も食い続けてきたんだ」と憤懣やるかたなく訴える近くの住人のインダビュー、更には北京オリンピックを控えて「警察や行政での取り締まりではこのような食品の安全の確保が難しいのでマスコミを利用した政府の取り締まり強化の一手段である」などとまことしやかにコメンテーターのしたり顔の解説なども交える中国食品批判の大合唱である。

 そして今朝(7.19)の朝日新聞の報道である。スクープのような表現ではなかったから、恐らくマスコミ全体へ知らされたのであろう。
 そのダンボール肉まんの報道は北京テレビの外部スタッフによる完全な捏造だったというのである。表現がオーバーだったとか一部に表現の不確かな部分があったというのではない。意識的に家庭用ビデオを利用した丸っきりの捏造だったというのである。そしてそれを裏付けるように、北京市食品安全局による肉まん販売業者に対する抜き打ち検査でもそうした肉まんの存在は見つかっておらず、北京市公安局でも捏造報道の疑いでテレビ関係者の捜査をしているとのことである。

 だがマスコミはまるで肉まんのことなどなかっかのように無視したままで、16日に発生した新潟県中越沖地震に向いている。しかも100歳の老女を引っ張り出して満足した対応のできない行政を批判したり、この地震で亡くなった10人の生前のまじめさやカラオケ好きの人柄の良さなどの生活ぶりを延々と報道している。

 ことは突然の地震である。行政にしろ企業にしろ、日常と同様の対応ができるはずがない。どんなに努力をしたところで被災者に普段と同様の100%の生活を与えることなど不可能である。そうした対応できない部分をことさらに探し出し、さらにそこに被災者弱者のイメージを重ねた報道を企図すること自体がマスコミの驕りになっているような気がしてならない。その報道でマスコミは一体何を伝えようとしているのだろうか。

 確かに我々はマスコミ抜きでは発生した事実の存在すらも知ることはできないかも知れない。そうした意味ではマスコミの存在は必要なシステムとして社会にも我々自身の生活にも抜きがたく組み込まれている。
 だが無批判で検証なしの情報や無責任で興味本位な意見の垂れ流しは、マスコミ自身の自殺行動である。恐らくこの捏造報道についてもそのうちに報道されるのだろうが、その当初の報道に踊らされた日本のマスコミ自身の反省に結びつける意見が聞かれることはないであろう。そしてどうして捏造事件が起こったのかについての中国のマスコミのシステムや動機や意図などを批判するだけで終わってしまうことだろう。

 つまりはマスコミは自社の直接的な誤りならばともかく、常に「誤報に踊らされた被害者」としての立場を貫いていくことだろうということである。だからなおさらに私は「マスコミの意見」を信じないことにしたのである。

 「国民の知る権利」の呪文は既にその神通力を失っている。マスコミの言う「国民の権利」とは単に商業主義に走っているマスコミ構成員が受けるべき現実的な利益(収益)だけを示しているに過ぎなくなっているからである。マスコミがどんなにマスコミを守ることが国民を守ることだと鼓舞しようとしたところで、国民はすでに「興味」の分野からしかマスコミを見なくなっている。そして、見えなくしたのはマスコミ自身である。



                          2007.7.19    佐々木利夫


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マスコミの功罪