マタニティストラップというのがあるそうだ。「妊娠してます」と宣言し、「いたわってください」と意思表示をするものらしい。全国的な運動なのか、任意の自治体などで地域的に採用している制度なのか、それとも単に個人的に携帯電話の吊り下げひもとして使うだけの限定された任意のシステムなのか、更にはカバンやハンドバッグなどに吊り下げておくだけでもいいのか首からぶら下げておくものなのか寡聞にして私にはそうしたストラップを利用している現場にお目にかかった経験がない。

 今朝の新聞(7.23、朝日)に「このストラップを見て、私のポッコリお腹を見ながら『フン』と笑ったまま座席を譲ろうともせず寝入ってしまった若い女性にぶつかった」と書いた投稿に出会った。
 私はそんな行為をやったと非難されている「フン」と笑った若い女性のことよりも、こんな投稿をした女性の考えのほうが気になってしまった。

 一つにはそのストラップをぶら下げていたであろう妊婦の、妊娠に対するどことない気後れ感である。別にポッコリお腹をこれ見よがしに見せつける意識はなかっただろうけれど、そうした妊婦を見た若い女性が「フン」と笑ってこれまたこれ見よがしにそのまま寝入ったと表現すること自体どこか被害妄想のよう気がしてならないのである。

 電車やバスの中で寝た振りをして席を譲ってもいいと思われる老人や妊婦に気づかない素振りをする若者がいないというのではない。ただ、それを「フンと笑って無視した」と感じるのはどこか自らの妊娠した姿に気後れの感情を持っているからではないかと思うのである。

 そしてもう一つ。最近は弱者保護に連なる様々が余りにも増幅されているような気がしてきているが、こうした機運に保護される側そのものがそうした制度に甘え過ぎてしまっているのではないか、さらにはそうした制度の思惑を越えてしまって権利みたいな感情にまでエスカレートしていっているのではないかとの思いが強くなってきている。

 このストラップの目的はそれを見た人たちの善意を期待するものであろう。それはあくまでも期待であって、例えば救急車がそこのけそこのけと警笛を鳴らしながら走るような、そうした善意を権利として主張することまでをも目的としているものではないだろう。
 だが投稿した人の思いの中には、そうした善意に基づく行動を「当然」のこととして要求するような驕りとも言うべき気持ちが込められているような気がしてならない。善意の要求であることは理解しているのだろうが、ストラップに込められた要求に従うのが吊り下げ紐を見た者の当然の義務であるかのような錯覚をしているのではないかと思ってしまったのである。

 つまりストラップを見たということは「その相手が妊婦であることを認識した」のであり、同時に「妊婦はいたわらなければならないとの義務を理解した」ことでもあると思い込んでいるのではないかということである。だからそうした理解をしたにもかかわらず「知らんぷり」をしたの相手の態度は「知りながらあえて無視した」ことであり、同時にそのことは「許すべからざる悪」であるとの感情につながっていったのではないかということである。

 人は己の立場に縛られるものではある。私がまだ独身の頃、九州を中心に旅行してきて最終日に地元に帰ってきたときのことである。有り金は全部使い果たしていて懐はすっからかんだった。その日は朝からパンくらい食べたかも知れないが空腹でたまらなかった。あと数時間で我が家に着けば食うものくらいはあるだろうが耐え難いほどの空腹であった。列車は空席がなく私は通路に立っていた。立っているのすら苦痛なほどの空腹だった。
 座席に座っている子ども二人が親からもらったキャラメルを食べ始めた。欲しかった。口に入ってこの空腹を少しでも抑えられるものなら何でも良かった。でも子どもたちは自分たちだけで食うだけで、傍らに立っている空腹の男に気づくはずもなかった。

 わたしはこの時、本当にこの子どもたちが憎くなったのである。そうした思いが理不尽なのは分かっていた。ただ、こんなにも飢えている男がいるのにどうして子どもたちは「一つ上げようか?」と優しい言葉一つ私にかけようとはしないのか。そんな身勝手な思いに凝り固まった男は陽気にはしゃぐ子どもたちの持っているそれほど切羽詰っては必要としていないはずのキャラメルに執心し、子どもたちの無関心に内心の怒りを抑えていた。

 私は今朝の新聞に投稿した人が、そのストラップに水戸黄門の掲げる印籠でもあるかのような問答無用の威光を求めているような気がしてならなかったのである。

 そう言えば、「電車の中では携帯禁止」の張り紙を見た乗客が、それを無視して利用している(と思い込んで)携帯を使っている乗客に向かって正義の御旗でも掲げるように声高に利用中止を要求するトラブルが発生したという記事を読んだことがある。
 また、地下鉄やバスなどのシルバーシートに座っている先客に対し我が物顔に私に譲れとばかりに主張する老人の話も聞いたことがある。

 ことはシルバーシートやマタニティストラップに限るものではない。乳がん知識の拡大を狙ったピンクリボンバッチ、車の運転の未熟を知らせる初心者(若葉)マークや高齢者(もみじ)マークなどなど、弱者と位置づけられる人たちを守るのだと称するマークが街中に氾濫している。

 そうした弱者への理解を求めようとする運動がやがて押し付けになり、善意が権利に変化していく過程には、そうした善意を受けようとする人々のあまりにもあからさまなわがままや身勝手さが先行し介入していっているような気がしてならない。どうして善意は善意のままに、静かに人々の心にしみこむような定着の仕方をしていかないのだろうか。

 「受ける」こと、「してあげる」ことが本来であったものが「要求する」とか「すべきである」というようなスタイルにあまりにもはっきり変化してしまうと、根っこが善意だったはずの様々がとたんに薄汚れ汚物にまみれた鼻持ちならないものに思えてきてしまう。



                          2007.7.26    佐々木利夫


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