札幌市内で行われた「水俣病・出会いの旅〜訪問から44年〜市民の集い」と題する講演会の様子を報告する記事(朝日、10.1、道内版)を読んだ。講演者は水俣病の患者自身である。その彼がこんなことを言っていたと報じていた。

 「中三の夏に(水俣病)が発症した。・・・体全体にしびれがきた」と話し始め、「同級生から『病気がうつる』と差別視された」と続け、そうした理解されなかった長い時代を淡々と証言したと・・・。

 講演者は現在64歳と書かれているから、発症したのは中三の15歳を差し引くと今から49年前の1958(昭和33)年ということになる。

 ところで私がネットで調べた水俣病の概要は次のようなものである(ウィキペディア、熊本県「水俣病問題についてのホームページ」による)。

 この病気は1956年に熊本県水俣市で発生が確認されたことから以降、同じような原因によるものが新潟でも起こったものの、いずれも水俣病と呼ばれている。
 原因はメチル水銀による中毒性の中枢神経疾患であり、汚染された魚介類の摂食が原因である。

 1953年頃から不審死の発生が見られ、1956年5月に「原因不明の中枢神経疾患」とされたのが始まりとされている。
 水俣病の原因物質が有機水銀と公表されたのは1959年の熊本大とされているが、公表されてからも非水銀説を唱える学者・評論家が出現し、マスコミや世論も混乱させられたと伝えられている。

 政府が「水俣湾産の魚介類を長期かつ大量に摂取したことによって起こった中毒性中枢神経系疾患である」との統一見解を発表したのは1968(昭和43)年9月26日のことだとされている。
 そうだとすると、この見解が発表された時期は彼が発症した中3の時から既に10年を経過していることになる。つまり、水俣病は多くの人々にとって彼の発症から少なくとも10年間は原因不明の病だったということである。そしてそうした原因が人々の中に浸透していくには更に多くの時間がかかったことだろう。それは当然のことである。知ることと理解することとの間にはどんな場合にもタイムラグがあるのだから。そしてその原因がどんな方法で、どんな人から伝えられたかもその理解の速度に大きな差を生じさせるであろうことも否めない。

 その原因不明の期間中にも(もちろん原因特定後もであるが)、水俣病は多くの人を巻き込んで増加し続けた。結果論ではあるが水俣病は水俣湾の魚を食べると言う同じような食生活を続けている隣近所の大勢の人々へとバタバタ広まっていった。そうしたとき人々はその病気にどんなふうに対処していったらいいのだろうか。

 少なくとも原因不明の病気が目の前にある。原因不明とは治療の方法が分からないということである。増えていく患者に対して人は無防備である。原因が分かってこその治療であり対策である、それまでは症状を緩和するだけの対症療法しかない。

 原因不明のまま、多くの人に似たような症状が広まっていく状況に対処するためには、その病気を「伝染病」と考えて患者に近づかないことが唯一の合理的な手段ではないのか。原因を知らない者にとってのそれが残されたたった一つの正当な手段ではないのか。だとするならそうした患者を避けようとする人々の行為を「差別視された」と言い募るのは誤りではないかと私には思えてならないのである。

 人は様々な病気や災害に見舞われてきた。老衰で死ぬ人も多かっただろうけれど、原因不明の症状で亡くなる人たちのほうがずっとずっと多かっただろう。そうした現実はこれだけ医療の発達した現代だって変ることはない。
 未知の病気に対しても、人は雄雄しく立ち向かい優しく接する勇気が必要だと正義は説くかも知れない。だが私も含めて未知の病気に対して、多くの人々は逃げるしかないのではないか。病気だけではない。災害だってまずは逃げることから対処するのが当たり前の人の当たり前の行動ではないのか。

 確かに疎外は疎外された人を苦しめる。原因不明の水俣病にかかった患者が周囲の人々から疎外される現実は、多くの患者を苦しめたことだろう。その疎外を差別と呼ぼうが区別と呼ぼうが同じである。
 私の幼い頃、世の中には結核が当たり前に存在しており、その治療には隔離病棟が常識であった。それは伝染するからである。現在でもSARS(サーズ)、鳥インフルエンザ、西ナイル熱などなど、いやいや麻疹だって普通の風邪だって伝染する病気の感染拡大に対してもっとも効果的な対策は隔離である。

 隔離が病気から逃れるための効果的な手段であることは世の東西、時代の新旧を問わずに証明なしに承認された疑いなき真実である。そのことは別に例えば特殊なワクチンだとか特効薬の注射などのように専門家のみに限定的に認められた方法ではない。誰にでも手軽にできてしかも効果抜群の対策である。

 原意不明が10年も続いた水俣病である。患者の周りに暮らす人々にとって、発症した患者から遠ざかることは、患者そのものを疎ましく思ってのことではない。我が身を伝染病から守るために必要な行動だったのである。
 結果的に水俣病は伝染病ではなかった。疎外には何の意味も効果もなかった。単に毎日食べている魚の中に中毒の原因物質が含まれていただけのことだったからである。
 もちろん患者との接触を避ける行為がそうした原因を知りながら行われたとするならば、そうした行為はいわれなき差別である。

 だがそれは結果の話でしかない。水俣病は悲惨な病気である。しかも当時としては原因不明の悲惨な病気である。その病気に感染しないことは自分を守るために最低限必要な義務である。そしてそれが感染源から遠ざかることだったのである。

 それを「差別」と呼んで、差別されたことをあたかも全人格を否定されたかのような話しに結びつけてはいけない。世の中どんな差別も許されないのだと、正義を振り回してはいけない。
 少なくともその当時水俣病患者を避けようとした行為は、そうした人たちが患者にならないための避けられない行動だったのだと、どこかでそうした被差別感、過去から引きずってきた思いと折り合いをつけなければならないことなのではないだろうか。

 水俣病の悲惨さを否定しようというのではない。被害の拡大について国の責任を問うことにも異論はない。ただ、自らを被害者の立場に置くことの対極に「差別視した」とする人々の存在を持ち出して、自らの被害の訴えに対する正当性みたいな根拠としてしまうことに、どうも納得がいかないでいるのである。



                          2007.10.3    佐々木利夫


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病気と伝染