「お財布携帯」などと聞きなれぬ言葉が出てきて、携帯電話を自動販売機にかざすだけでジュースが買えますなどの話題が賑わったと思ったら、こうした機能に類似した電子マネーが東京を中心に広がってきつつあるようだ。
 地下鉄や電車などの乗車券の購入から駅界隈のショッピングまで、カードの種類はいくつかあるようだが指定された薄っぺらなひらひらを器械の上にかざすだけで支払いができる制度である。

 メディアも開発した側も商店も、便利便利の大合唱である。現金支払いの代わりにカードをかざすだけで済むのだから、財布から金を出したり数えたり釣りをもらったりなどの時間が大きく減ることになる。だから交通機関は乗降の時間が短縮されることになるし、商店でも代金授受に伴う時間の短縮が図られることになる。そしてそれは金を受け取る側の利便ばかりではなく支払う側、つまり客にとっても精算のための流れがスムーズになって行列が短くなるなどの利便性が増すとの話へと結びつく。

 言ってる意味は分かる。バスが停まって、のっそりと座席から立ち出したオバアチャンが出口の運転手に近づいてからやおら買い物袋をまさぐって財布を探しはじめ、挙句の果てにそこいらじゅうに小銭をばらまいてしまったり千円札で払おうとすることなどはそんなに珍しいできごとではない。地下鉄だって同様で、後ろで待っている人が何人もいるのに券売機の前で財布片手に料金表をうろうろ眺めている人の姿もけっこう見ることができる。

 小銭の場合が多いのだろうが、代金支払いのためにロスタイムが発生し、そのことで代金を受け取る側や行列などで後ろに続いている客などに迷惑をかけるような現象は、単に支払い者がお年寄りと言うばかりではなくロスタイムに多少の長短はあるにしても老若男女を問わずに発生していることは我々のつとに経験するところである。
 だからそうしたロスタイムをなくすることは店、客共に便利なのだという意見の分からないではない。

 こうしたキャッシュレスが我々の身近に迫ってきたのはいつ頃からだったろうか。考えて見れば昔からあったバスや電車の回数券や定期券だって一種のキャッシュレスだったことに違いはないだろうし、商取引に使われる小切手や手形だって、多少のこじつけになるかも知れないが同類にひっくるめてもいいのかも知れない。だがそれと今広がろうとしている電子マネーとはまるで違うのではないだろうか。

 私が子供の頃、父が働いて得た給料は、給料袋に入った現金であった。その袋を母は毎月神棚に供え、それから使っていた。給料袋に現金が入らなくなったのは銀行振り込みという制度が導入された我々の時代からである。そしてその銀行振り込みはキャッシュカードという制度と分かち難く結びついている。

 サラリーマンを月給の配達人と呼んだ風習は一種の月給取りを軽んじた表現だったとは思うけれど、それでもその月給袋は働き手である夫なり父の努力の成果と分かち難く結びついていた。たとえそれが給料の少ない甲斐性のない働き手によるものであったとしても、貰ってきた給料は生活を支える大切な現金であり、夫そして父はその原資たる大切な働き手であったからである。

 それがある日、突然に銀行振込みという便利な制度が導入された。給料日、給与は自動的にサラリーマンの預金通帳に振り込まれ、キャッシュカードさえあれば本人家族を問わずその預金を引き出すことができるようになった。そしてサラリーマンはそれと同時に月給の配達人と言われたささやかな地位さえをも失うことになったのである。

 母親は給料日の朝、子どもを連れて商店街にある器械にカードを差し込んで金を引き出す。子どもの目にはまるで手品のように器械からいくらでも現金が出てくる光景がそこにある。銀行振込みはたった一つ残されていた給料を運ぶ父の姿さへも妻や子どもの目から奪うという現象を引き起こしてしまった。そうした現実を目の当たりにした子どもは、金の心配をする母親に対して、いつでも適切で現実的な助言をすることができるようになった。
 それは驚くほど簡単で明瞭な助言であった。たった一言で済む助言であった。「器械の前でボタンを押せばいいじゃないか」。それでおやつやおもちゃが買えるのである。

 そして時を経て電子マネーの時代になった。キャッシュレスと呼ばれる時代が始まった。キャッシュカードの時は少なくとも手にした現金は自己の責任で管理しなければならなかった。
 だが新しい時代はそんな心配すらも遠くへと押しやり、新しい万能の呪文を人々に与えることになった。

 「お財布からお金が減りません」。なんと素晴らしい呪文であることか。ハンドバックやポケットから取り出したカードをひらひらかざし、たった一言この呪文を唱えるだけで好きなものが好きなときに好きなだけ手に入る万能の神通力を人は与えられることになったのである。

 電子マネーは今後どんどん普及していくと考えられている。当面はカードを購入しその券面額の範囲内での利用になるとのことであるが、既にクレジットカードからの充当が可能になっているらしいし、恐らく将来は預金口座に直結する方式へと拡大していくことだろう。必要ならその口座に残高が不足していたなら自動的に借り入れがなされる借り越し契約みたいな機能をつけることだって可能だろう。カード人口の増加とは、便利さの陰に隠されてこの種の呪文を唱える人の数がますます増えていくと言うことでもあろう。
 本当にそれでいいのだろうか。それが時代の流れであり、そうなることが時代の要請なのだと、本当に思っていいのだろうか。

 もちろんカードの利用によるトータルの利便性をまやかしだと否定したいのではない。ただ支払いや切符の購入にモタモタする爺さん婆さんが、このカードの出現によってさっそうと改札口を通り抜ける姿に変身することなどとても想像できないし、しかも一方でカードの出現で人々は一層早くなっていく流れにすぐに馴れてしまうのではないだろうか。

 それでなくても忙しいことが正義だと信じ込んでいる現代人である。モタモタしている老人のみならずカードを使わない乗客に対しても、自分たちの流れとは少し違っているスピードに身勝手な疎ましさを感じてしまうのではないのだろうか。
 「なにモタモタしてんだよ・・・」、「サッサとやれよ・・・」、心の中で舌打ちしている人たちのイライラ顔が目に浮かぶようである。



                          2007.3.16    佐々木利夫


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