毎朝事務所へは歩いて向かうが、その時のお供は片耳イヤホーンのポケットラジオである。MDプレーヤーでカラオケの練習や自分で吹き込んだ法学検定試験の模擬問題を聞きながらと言う時期もあったのだが最近はもっぱらラジオを聞くことが多い。

 今朝のことである。チラホラ粉雪の舞う中、事務所まであと10分足らずの耳に、聞きなれたクラシックが流れてきた。部分的にしろ鼻歌で口ずさむことのできるくらいの名曲である。・・・・そのはずであった。
 ところが曲名はおろか作曲者名もまるで浮かんでこないのである。聞きなれたピアノ協奏曲がベートーベンなのかチャイコフスキーなのかと迷うくらいのことは、最近クラシックにはすっかりご無沙汰しているから、間違ったところでそんなに気になるほどではない。

 だが低音の不協和音の連打が続くこの曲は一度聞いたら忘れられないほどの名曲のバレエ曲であり、現代音楽であり、曲調の似ているベートーベンとブラームスの交響曲を取り違えるのとは訳が違うのである。誰の何と言う曲なのかは、他の作曲家の曲と間違えるようなものではなく、例えば「君が代」が日本の国歌であるくらいはっきりしている曲なのである。私はその曲をきちんと知っている・・・はずなのである。

 その曲を知っていることは間違いのない事実であり、作曲家名だって忘れるはずがない、にもかかわらず作曲家も曲名もまるで出てこない。こんなにもはっきりしている事実が思い出せない。その事実にとうとう我が身にも加齢による物忘れが始まったのかと、一種の恐れにも似た感情すら湧いてくる。

 「忘れたことを忘れている」のではなく「忘れてしまって思い出せない」ことを理解しているのだから、朝めし食ったことを忘れているのとはまるで違うのだとは思うのだが、あまりにも明白に記憶の欠落を突きつけられた現実はそれなり大きいものがある。

 ボケは記憶の欠落の拡大と言う形でも進行していくのではないか。そうだとすればその欠落を自力で補修できるのならその進行を止めることができ、場合によっては治癒にまで持っていくことだって可能ではないのか。

 こんな思いにはまり込んでしまうと、忘却の霧を振り払うことはボケ完治の呪文でもあるかのように妄想じみた義務感へと一層高揚していく。つまり、どうしても思い出してやるぞとの信念とも、妄執とも言えるような変なこだわりが俄然湧いてくるのである。

 さて、思い出すための手近な道具立ては、忘却した事柄の周辺の情報を使って記憶の穴を埋めていくことである。聞いている曲から連想できる事項を手がかりに本質に迫ろうとするものである。

 まず思い出したのが、ポンキェルリ作曲、オペラ「ジョコンダ」の中の「時の踊り」であった。今聞こえている曲がこの曲でないことははっきりしている。「時の踊り」だって鼻歌で歌えるくらい聞きなれた曲だからである。

 どうして「時の踊り」が出てきたかについては二つの理由がある。
 一つは「時の踊り」というタイトルが思い出そうとしているこの曲のタイトルにどこかイメージ的に結びついているような気がしたからである。そしてもう一つはこの曲が「時の踊り」とともにディズニーが今から50年以上も前に発表したクラシック曲を使ったアニメ映画「ファンタジア」のなかの一曲だったことである。

 そのアニメの中でこの曲は、火山の噴火と溶岩流、そして原始の地球とアメーバーに始まる生命の進化を画いていた。もう一つの「時の踊り」は動物の踊るバレエだったからこの意味でも曲名が違うことは分かる。

 「ジョコンダ」、「時の踊り」、「火山の噴火」、「溶岩の流れ」などがぐるぐると頭の中で回りだす。だがそれでも思い出せない。そうだ、この曲の作曲家は同じバレエ曲「火の鳥」も作曲しているぞ。手塚治のアニメ「火の鳥」が浮かんでくるが、これはまるで無関係である。それでも記憶の糸が少しほぐれてきたような気がする。

 どうしても「時の踊り」と言うタイトルがなぜか頭から離れていかない。原始の地球、何か原始人の儀式みたいな映像が記憶の隅にひっかかる。儀式・・・、祭り・・・、収穫・・・、祈り・・・、なんかそのあたりに関係があるような気がする。そうだ「祭り」だ。呪術的な祭りのイメージだ。

 混乱する頭の中でどうやら「・・・の祭典」と言う言葉にたどり着く。「時の祭典」・・・、「動物の祭典」・・・、違う違う。もどかしさはこの程度の解明ではさっぱり解決されることはない。だがあと一歩である。

 作曲家は誰だったろうか?、ショスタコービッチ・・・・いや違う。プロコフィエフ・・・・しっくりこない。このあたりまで名前がたどり着いたということは、この曲を作ったのがドイツやフランスの作曲家ではなく、北欧かロシア辺りではないかとの思いにまで届いているということだろうか。
 それでも頭から「時の踊り」がなかなか離れてくれない。

 朝飯はちゃんと食ってきたし、二日酔いの感じはしないからそんなに深酒をしたわけではないと思うが、それでも仲間と盛り上がった昨日の事務所での酒がまだ残っているせいだろうか。
 思い出せないままに事務所へ着いたが、まだ記憶の糸はつながらない。このままラジオを聞き続けていれば番組の終わりには曲名の紹介くらいするだろう。それまで聞き続けるか。だがそれでは厭である。それは教えられたのであって、思い出したこととはまるで違うからである。

 曲の中途だが事務所到着、イヤホーンを外す。だが音楽は依然として頭の中に鳴り響き、「思い出せ」、「思い出せ」と叫び続けている。ショスタコービッチがこの曲の作曲家でないことは分かっているのだが、それでもなんとなくつながりそうな気配のある名前である。
 前触れもなく突然に霧が晴れる。ストラビンスキーである。やっと思い出した。この曲はストラビンスキーの「○○の祭典」である。

 だがそれでも記憶はそこまでである。曲名が出てこない。僅かにしろ残っている昨日の酒を洗い流すべくシャワーを浴びることにした。
 この時期日本中歳末だし、おまけに今日は土曜日である。ドアの前には不在の札をかけたままの事務所、誰が訪ねてくるでもあるまい。朝っぱらからではあるが、少し熱めのシャワーでしゃきっとするのも悪くはない。

 そして頭を洗っている時に、ふと、脈絡もなく一言が浮かんできた。「春」である。これですべて解決である。ボケへの恐怖との闘いは、どうやら自力で勝利へと導くことができたのである。誰に頼るでもなく、わが頭脳の記憶を回転させることで、立ちはだかる忘却の絶壁に敢然と打ち勝つことができたのである。

 シャワーが終わったらネットで検索してみようかと、机の上に残した「ストラビンスキー」と書いたメモも必要なくなった。潔い気持ちでそのメモをくずかごに捨て、なんだか急に嬉しくなった今日である。来るときの雪もいつしか止んで、こころなし窓からは明るい日差しも覗いてきたようである。

 ストラビンスキー作曲、バレエ組曲「春の祭典」、これでいいのである。なんともさわやかな年末であることか。
 「時の踊り」と「春の祭典」、タイトルだってとても似ているではないか。そんな自画自賛の大晦日前日のさわやかなひとり事務所のひとりの男の朝である。



                          2006.12.30    佐々木利夫


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