最近のテレビで、発情すると注意力が散漫になって使命を果たせなくなる恐れがあるので、盲導犬の全部に不妊手術をしているという話しを聞いた。そのことの意味が分からないではない。
 現実に盲導犬を目にする機会はそんなに多くはないけれど、テレビや映画などを通じた情報によるかぎり、その能力や従順で人懐っこい姿には驚くばかりである。そうした能力や従順さが生理的要因で崩れてしまうのだとするならば盲導犬に依存している者の恐れはよく分かる。

 盲導犬が日本に、そして世界にどのくらいの数がいるのかは分からない。ただその全部の盲導犬が去勢や避妊の手術を受けていることに、どこか納得できないものを感じてしまったのである。

 犬に己の一生を望み決定する力があるかどうかと問われれば、その答えは否定的であろう。そんなところに自らの生涯を決定するような能力を認めてしまうということは、犬だけでなく全部の生物に人間における人生のような意思と生涯を承認することになってしまうからである。

 だがその反面、そうした生涯を全く認めない、つまり「ゼロ」だと割り切ってしまうことにもどこか納得できないものが残る。動物愛護などの運動の背景には、そうした「ゼロでない」とする意識があるからこそ世界に広まっているのだろう。

 私にはどこかで盲導犬にだって自分で決める生き様みたいなものがあってもいいのではないかと思うのである。もちろんそうした意思が仮にあったとしてもその意思を確かめる術はないだろう。犬語を翻訳する機械が売られたこともあったけれど、それはあくまでも玩具としてでしかない。

 それにもかかわらず犬にだって好きな仕事、嫌いな仕事、辛い仕事、楽しい仕事などを感じる能力はあるのではないかと思うのである。いやいやそう思うのは余りにも犬を擬人化し過ぎた私の僭越なのかも知れない。
 証明できない以上、犬に自らの意思を認めることなど荒唐無稽かもしれないが、それでも「ある」と擬制してもいいのではないのかとさえ思ってしまうのである。

 仮に「ない」ことを認めてもいい。それでも、生殖とは命ではないのかと思うのである。更に言うなら生殖とは子孫を残すことであり、子孫を残すということはもしかしたら種としての自らの命よりも重い使命なのではないのかと思い、そしてそのことに人間の意志が介入してしまう現実に、盲導犬としての利用価値なんぞという人間の小ざかしい理屈をはるかに超えた人間の驕りみたいなものを感じてしまうのである。

 不妊や去勢の技術は何も盲導犬に限ったものではない。人間にだって施されることもあるし、飼育されるペットの繁殖制限や害虫の駆除などの手段としても利用されると聞いたこともある。またこれはかつて帯広に勤務していた頃の話だけれど十勝地方の士幌という町では、生産した馬鈴薯の保管中の発芽を防ぐ手段として放射線を照射していたが、これも同じような系列に入るものだろう。

 だからそんなことどものあれこれに、いちいち目くじら立てていたのでは、すき焼きも肉じゃがも毎日の食事すらも食えなくなってしまうことになってしまうだろう。それはそうなんだし、我々人間も含めて種として生き残っていくということは、他の種の命の上に成立していることを否定することはできないことも理解のうえである。

 それにもかかわらず人間は不妊、去勢という他の生物にはない技術を思いつき、それを当然のこととして己の種族ために利用することに思い及んだ。
 神が人を作ったのではなく人が神を作ったのだと私は傲慢にも思っている。だから神に責任を転嫁しようとは思わないけれど、この盲導犬の不妊手術の中には人間の業とも、原罪とも、不遜、残酷とも、そして身勝手さともいうべきやりきれなさが感じられてしかたがないのである。



                          2007.12.11    佐々木利夫


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盲導犬の不妊手術