大阪弁の「もうかりまっか」の挨拶は、聞き慣れてしまうとそうでもないのかも知れないけれど、そうした表現を普段使っていない我々にとってはあまりにも直接的でいささか抵抗がある。

 だが、我々が日常的に使っている「お忙しいですか」の常套句だって、考えてみれば結局は同じことを言っているのではないかというような気がしている。
 なぜなら「もうかりまっか」に対する返答は「ぼちぼちでんな」らしいけれど、「お忙しいですか」に対してだって「まあまあですね」とか「おかげさまで」など、曖昧さも肯定さも含めて似たような反応になっているからである。

 こうした背景には「働かざる者食うべからず」的な、儲かることや儲けることが合理的な社会人としての正しい選択なのだという意識がある。「お忙しいですか」の一言だって、その忙しさは社会的に是認される行為に基づくものであることが予定されており、そうした忙しさの結果として金銭であるとか地位などが伴っていると信じられている前提がある。

 忙しいことは正義であり、これに反する行為は「怠ける」ことであり、「たるんでいる」ことだと人は頭から思い込まされている。つまり「私は世の中に必要とされている」、「だから忙しいのだ」と自他共に認めること、認められること、認められようとすることが正しいのだという思い込み、もっと端的に言うならそうした状況を維持しようとする「見栄」が、忙しさを正当化する背景を支えている。

 人から見栄をなくすることなどそもそも無理なのかも知れないと思わないではない。見栄にだってそれなり生きるためのエネルギーが含まれていることは理解できるし、人は見栄なしでは生きていけないであろうこともまた理解できるからである。
 かく言う私のこれまでの人生だって「見栄ゼロだったか」と問われれば決してそんなことはない。

 それでも「お忙しいですか」を繰り返す人たちを見ていると、どこか味気なさを感じてしまうのである。見栄は今では人間そのものを構成するパーツになっているのかも知れないけれど、そこから少し離れてみると、楽しいことなんてどこにでもあるような気がする。

 ただ、多少大げさであることを覚悟で言うのだけれど、こうして自称別荘仕立ての書斎とも思い込んでいる事務所で様々な想いにふけっていると、そうしたゆったりとした時間は必ずしも一朝一夕に得られるものではないことも分かってくる。
 もちろんアラジンの魔法のランプのように、望んで直ちに実現されるのが理想かも知れないけれど、そんな効果など凡人の私にはそんなにたやすく入手できるものではないし、場合によるのかも知れないけれど、そうしたたやすさは逆に楽しさを邪魔するもののような気さへしている。

 そうした自分流の時間の過ごし方を贅沢と呼ぶか孤立した閉鎖空間と呼ぶかはまさに人様々かも知れないけれど、それでもこんな時間を得るためにもやっぱりいくつかの前提が必要となる。

 まあ、年齢相応にあちこちガタも来ているだろうが、とりあえず第一に身体的に健康であることが必要となろう。事務所の椅子にふんぞり返って従者のいないホワイトハウスの主人公だなんぞと威張ってみたところで、頭痛腰痛腹痛などにかき回されていたのではとてもゆったりとした気分になることなどできないだろうからである。

 第二は多少の金銭的なゆとりも必要となる。テレビドラマなどでは孤高で気ままな学者ホームレスみたいな設定もないではないが、やっぱり家賃を払い食うもの喰ってこそのホワイトハウスだろうし、身動きするたびに多少なりとも金がかかるのもこれまたこの世の習いだからである。

 そして第三はボケないことが大切となる。最近、若年性認知症の番組を見たが、認知症の事実を自分で理解できないままボケていくのならまだしも事実はどうも違うらしいのが厄介である。だとすれば自覚を余儀なくされる進行性の記憶の欠落はやっぱり何かを成し遂げようとする想いや、ゆったりした時間を楽しむことへの障害になっていくだろうからである。

 さて第四、これが一番大切だと思うのだが、「やりたいことがある」ということである。それは気力と呼んでもいいのかも知れない。そしてこの「やりたいこと」は単なる思いつきや閃きで見つかるものではなく、その人の人生の累積の中から見つけていくしかないのだとも感じている。

 なぜなら、今の私が楽しいと思い、やりたいと思い、過ごしたいと思っている様々は、そのどれもが私の過去の、それも若い時にたどって来た道そのものの中に生えているものばかりだからである。
 私一人の経験を人一般に広げることなど不遜だとは思うけれど、もしかしたら人は30歳くらいまでに経験したことに生涯支配されてしまうのではないかと思うことがある。つまり人は己の若いときに知らずに作った自らの殻に生涯閉じ込められてしまうのではないかと言うことでもある。自分の中にないもの、自分が若いときに経験してこなかったものはどんなにやろうと努力しても、そのための力が湧いてこないのでないか、そんな風に思うのである。

 だとすればこの歳になってまるっきり新しいことを始めることなど難しいのかも知れない。遊びでもいい、気まぐれでもいい、なんなら無理やりやらせられた嫌いなことでもいい、とにかく若いうちに干からびたままでいいから数多くの種を用意しておかないと、後になってどんなに豊かな土壌を用意したとしても思いつきの種が新しく育つことはない、そんな気がしているのである。

 さてさて、そはさりながら仕事もちゃんとやったけれど、私にも毒にも薬にもならずはたまた時間の無駄遣いそのままの雑学ともつかない種をけっこうポケットに詰め込んできた若い頃があった。
 まあ、花開くとまではいかないまでも、飽きずに水を遣っていれば金などかけずとも芽くらいは出そうな雑草の種はまだいくつか残っている。

 せめてはその芽吹きを楽しむことにでも、この事務所でのたっぷりの時間を使うことにしようか。もちろんこうした「忙しくない現実」という選択もまた、一種の見栄なのかも知れないのだけれど・・・・。
 ・・・・・・・ところであなた、この頃「もうかりまっか・・・・・」。



                          2007.2.16    佐々木利夫


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