少し前、看護師で介護の仕事をしている娘から突然「村田先生に会ってきたよ。お父さん、前に先生のこと話していたよね」と言われ、娘が会ったと言う事実とは別な意味で驚いてしまった。村田忠良さんは私にとっては精神医学というか心理学というか、そうした方面で大きな感化を受けた人である。

 だが、そうした人物が私の人生に存在していたことを娘に話したことがあったんだということに驚いたのである。勝手な思い込みではあるけれど、彼は私にとっての人生の師の一人と呼んでもいいほどの存在である。そんな私の思い入れを私が娘に話していたことなどすっかり忘れていたからでもあり、同時にもう子供二人(つまり私にとっての孫)を持つ娘がそうした私の話を今でも覚えていたことに正直驚いたのである。
 そしてそのことはかつて、恐らく私が彼のことをそれなり熱っぽく語ったであろうことを裏付けていることの証左でもあった。

 彼との出会いはもう30数年も前になる。その出会いは多数の生徒の一員である私とその講師としての彼という関係、つまり私は彼を知っているが、彼は私を知らないという関係であった。
 その頃札幌には市が主催して行う「成人学校」と称する講座がいくつかあり、そこでの出会いであった。まだ社会人に対するこうした試みのそれほど多くなかった時代であり、講座の開催場所も現在のように様々な公共施設の少なかった頃だったから、確か小学校か中学校の放課後の教室を使っていたと記憶している。

 その講座は週に一回くらいのペースだったと思うのだが、全体で何回くらいだったのだろうか。生徒数はそれほど多くなかったような気がしているけれど、そもそもどんな講座内容だったかすら既に忘却の彼方である。成人学校と銘打つだけあって、受講生といえどもそれぞれに仕事を持っている身だから、恐らく午後6時を過ぎてからの開始だったと思うのだが、それなり熱心に通った覚えがある。

 そして講座の中で彼から聞いたのか、それともたまたま入った書店で偶然見つけたのか、今となっては記憶にないけれど彼の著書「現代精神衛生学ノート」(昭52年・1977年刊、中央出版社)に出会ったことは彼の講義を一層楽しいものにし、同時に私の興味を心理学方面へと誘った大きな力となったのであった。

 彼との出会いというか影響を受けたのは、この講座よりは彼の著作によるところの方が大きいのかも知れない。奥書きの著者紹介によれば、当時、彼は札幌の天使病院の精神科医長をしており、46歳である。
 私はこのとき37歳だったから彼とそれほど大きな年齢差はない(?)と思うのだが、彼の造詣の深さには圧倒された記憶がある。単に知識の深さというだけではなく、人生に対するやさしさとか、考え深さ、思索する力などに圧倒されたのであった。

 「医の道、つまり医道とは、とりもなおさず生命に対する医学の構えのあり方である。医道の再検討と確立が要請されたことは、現代医学が生と死に対して定見をまだもっていないことの証拠である」(P296)、「精神療法は、苦悩する患者への深い共感と心のもつ強大な復元力への信頼を土台にして行われる」(P216)、「屍体は静かである。なぜなら命がないからである」(P292)などなど、350ページを超える著書のいたるところに赤線がひいてある。余白に下手な字で書き込みをしてあるページもあちこちに見られる。

 私はこの本からも、人生であるとか家族、生きること、死ぬこと、老いることなどなど、宗教観まで含めて多くを考える道筋を学んだと思っている。学んだことがそのまま私の人生観を決めたとは必ずしも言えないだろうし、クエスチョンマークのついている文章も散見できるから彼の思いの全てに共感したわけでもないだろう。

 だが今、私は彼がこの著書を著した年齢をとうに超えた。そして改めて我が人生の遅々として進まなかった現実をしみじみと味わっている。
 彼は現在札幌の柏葉脳神経外科病院において現役で活躍していると聞いた。
 彼との出会いは30数年前の講義での一度限りである。熱心に読んだ彼の著書だって、書棚の奥に隠れたまま数十年を経ている。娘からの話がなかったらそのまま埃に埋もれたままになっていたかも知れない。
 しかしこうしてもう一度読み返してみると、赤線の感動は時を経て今も新鮮であり、そのまま私の知識や思いの中に引き継がれているような気がしてならない。

 彼は著書の中でたくさんの文章を引用している。彼の博識や読書暦を物語るものではあるのだが、そうした引用の中にひとつだけなぜかいつまでも忘れられないフレーズがある。この短いフレーズは私の人生の折々に暗闇からの不意打ちのように現れてきて、迷う私の心になぜかまとわりついてくるのである。

                こころのおくに
              こえがある
              こころひとりの
              こえがする


        
ある精神薄弱の男の子の作った詩だと紹介されている(P187)。

 「我れ以外皆我が師」とは誰の言葉だったろうか。思い返せば、苦手だったライバルも、酒を飲むと「勉強しろよ」と口癖のように言っていた飲んだくれの先輩も、叱られた上司も、感動した一冊も、挫折も、後悔も、そして家庭も職場も、それぞれが「私の師」だったんだとふと感ずることのできる歳になった。そうしたことどもの一切合財を老いに含めて、もう一度私の中の師の存在を味わってみるのもあながち悪くは、ない。



                                 2007.2.15    佐々木利夫

 彼の訃報に接した(08’.9.2、朝日新聞)。78歳、8月30に亡くなって今夜が通夜だとあった。お悔やみ申し上げますなどと月並みなことは言うまい。上記本文に掲げた「現代精神衛生学ノート」一冊しか持っていない私だけれど、独りよがりながら我が師の死でもある。一人の事務所でこの本の数ページのつまみ読みを肴に、遠い昔を偲びながら杯を重ねるのも一つの通夜のカタチでもあろうか。

                                 2008.9.2     佐々木利夫



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村田忠良さんと私