交番に勤務するお巡りさんのシステムは日本独自のもので、海外からも注目されているという話を数年前に聞いたことがある。
 道を尋ねたり落し物を届けたり空き巣があったらすぐに駆けつけてくれるなど、この制度が軍隊という制度のない我国において、警察という国家権力のあからさまな姿をかなりの程度和らげている効果を持つことは否めないであろう。

 私自身も税務署の職員として、警察とは別の意味での国家権力を背負って仕事をしてきた過去を持つが、警察機構におけるお巡りさんのような存在が我々のシステムの中にはないことについて、いささかの悔しさを覚えたことがある。

 まあ、公務員だってそれぞれきちんと仕事をしているのだから、ヤンヤヤンヤと拍手喝采を受けるようなシステムや環境がなくたってそれはそれでいいのだけれど、どちらかと言えば税の職場は必ずしも人に好かれる分野とは言えないことから、全体として税務職員のイメージアップがはかられるような場面が欲しいと思ったことも事実である。

 それでも年に一回だけれど、多くの人が確定申告で税務署を訪れるという機会があり、その窓口対応などを改善することで各種官庁の対応の中では第一位になったことがあり、「やさしい税務署」のイメージを納税者に与えることができたことには、少しは自己満足を感じたこともあった。

 ところでお巡りさんである。「お巡りさんを住民の身近に」と題する新聞投稿があり(朝日、6.5)、その中で道路脇の放置自転車の撤去などを求めて交番を訪れた主婦の意見が載っていた。
 この事例だけを指すわけではないが、野良犬の始末から街の落書き、暴走族への対策まで、「なんでもお巡りさん」と言うのは、あまりにも住民の身勝手ではないのかと、つい思ってしまった。具体的に相手から暴力などの被害を受けるような場合に、我々は自力執行権を持っていないから警察なりの権力に頼ることに異存はない。

 だがそうした具体的な危機でないときなどは、町内会や自治会や近隣などで自己解決しようとする努力がまるで見られないのはどこか気になる。いま進んでいる核家族化は、「個」対「公共(自治体なども含めた国家権力)」というスタイルへと思いっきり場面を変えてしまったのだろうか。

 「個」として厭な仕事や面倒な物事は、すべて公共たるお巡りさんや市役所、保健所などに丸投げすることが当然だと、余りにも思い過ぎているのではないだろうか。そしてそうしたお巡りさんや市役所や保健所などもあまりにもそうした丸投げされた厄介ごとにたずさわり過ぎてきたのではないか。

 今の時代、どうも他人のせいにしすぎるのではないか。新聞もテレビも、読者も国民も、世の中全部が、社会が悪い、政治や行政が悪い、学校や先生が悪い、銀行や商社が悪い・・・、そして悪い奴に責任を押し付けろと続く。しかもそうした社会や行政や政治に「なんとかしろ」と全面的に依存していながらである。

 人の心がいつになくギスギスしてきていて、なんでもかんでも自分に都合の悪いことに腹をたてるようになってきている。
 「宥恕」とは相手の非行を許容する感情の表示(広辞苑)だが、気に食わないと当たり構わず文句を言い、それを受ける行政もまた何でもかんでも引き受けるような顔をしながら台風一過を狙う、そうした風潮もどこか変だ。

 人はいつから許すことを忘れてしまっのだろうか。他者を責めることについて人はいつからその行為自体を己を守ることなのだと錯覚し始めたのだろうか。他者を攻める行為は「個」として生きていくことからくる必然なのかも知れないけれど、そうした個として生きる姿勢とは結果として孤立の宣言をしていることにならないのか。責め続けることは助け合いを喪失した仲間なき生き様の証を見ているような気がしてならない。

 「なんでもかんでもお巡りさん」の風潮は、助け合いから遠くはなれた権利だけの主張である。しかもその意味は「私のためやってくれ」であり、その前提には「他人はともあれ」の意識があまりにもあからさまに見え隠れしている。そうした主張は逆に人間としの自立と言う基本的な意思の喪失を意味しているのではないのかと思い、そうした風潮はまるで今全国で流行っているはしかのようにあらゆる分野で蔓延しようとしている。




                          2007.6.8    佐々木利夫


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