かすかな初雪の便りも届いて、朝の気温が零度を下回る季節になった。通勤途中のナナカマドの並木は申し合わせたように赤いままの葉を落とし始め、まるで真紅のじゅうたんが道一面に敷き詰められているようだ。見上げる空の青さも、そのナナカマドのこずえから透けて見えるようになってきた。天気予報は雪の積もり始めた地域のあることを報じているが、札幌はまだそこまでにはなっていない。

 赤いじゅうたんに少し戸惑いながら歩いてから数日、今日は町内会の清掃日なのだろうか市営住宅の団地界隈に朝早くから火バサミを持った人たちが忙しく動き回っている。そしてナナカマドの落葉は見る見るかき集められ、ビニールのゴミ袋にいくつも詰められている。つまり落葉はここではゴミになっているのである。ナナカマドだけではなかった。もう少し歩いた先の小さな公園では、プロアー(背負った掃除機みたいな小型エンジンから風を噴出す装置)で寄せ集められたイチョウや柏などの落葉もやはり一箇所に集められて小型トラックに積まれている。

 燃やすのか、それとも何らかの方法で腐葉土を作るようなシステムになっているのか私は知らない。だが、特定の農家が個人的にそうした方法を採っているという話ならともかく、例えば自治体単位で落葉を腐葉土にしたり堆肥に加工したりするシステムを構築しているなどは寡聞にして聞いたことがない。

 とすれば、私の意識の中では集められた落ち葉はゴミとして焼却されてしまうのだろうと思っている。今が盛りの落葉の季節である。自宅から事務所までの道々のいたるところでそうしたゴミ集めがされている。戸建ての庭先では首に手ぬぐいを巻いた老人が、学校の回りでは用務員らしい人が、木枯らしに追われるように散り急ぐ落葉をかき集めている。

 そうした作業の意味は分かる。アスファルトに散った落葉は役立たずのゴミでしかないことの意味は、分かり過ぎるほど分かる。山の落葉なら地面を暖めて冬越えの若葉や昆虫を守ることができるだろうし、腐葉土となって木々を育てる肥料になることもできるだろう。
 だがアスファルトではそうはいかない。場合によっては濡れ落ち葉は歩行者やタイヤのスリップを招く恐れすらあり、腐った落ち葉は汚水を伴って排水溝をふさぐことだろう。

 かくして鉄筋コンクリートとアスファルトに囲まれた街中のいたるところに、落葉の居場所はなくなった。今や人と落葉とは決定的に共存できなくなってしまったのである。だから落葉は役に立たないゴミであり、役立たずのゴミは捨てるしかないのである。厄介者はゴミとして処分する以外に方法がないのである。

 一方でその正反対のものもある。最近FRP(強化プラステック)製のプレジャーポートの廃棄方法が検討されているとのニュースを見た。このFRPは人間が石油から作り上げた物である。今やFRPはサイロや船舶などの建造物から自動車部品などまで多くの製品に加工され浸透してきている。そしてこのFRPは決して腐らないのである。

 こんな話を聞くにつけ、一層落葉をゴミにしたのは人間の傲慢だと思ってしまうのである。FRPの問題は処分方法が難しいことから、プレジャーボートが海岸や湖畔に放置されるという現象を引き起こしている。それは何もプレジャーポートに限るものではない。「放置しておいても腐らない」というのは製品にとって勝れた特質として働いた。
 だが製品は技術革新や所有者の好みの変化や取り付けた部品などの劣化などでいずれ不用となる時がくる。燃やすという処分方法はダイオキシンなどの発生から困難とされ、結局放置される運命が待っていた。

 廃棄された決して腐らないプラスティック、そしてゴミとして燃やされる落葉、この対比は人間の傲慢をそのまま表しているのではないだろうか。大量消費時代への移行は物の価値に対する認識の変化へと人の心を変えていった。端的に言ってしまえば捨てることへの罪悪感の欠如である。ピカピカの新品を無造作に手に入れ、そして同じようにまだ使用可能であるにもかかわらず無造作に廃棄することが日常化していった。

 それは利用する側の意識だけではなかった。作る方もあっさりと捨てられることを前提に商品の開発を続けた。「物を作る」ことには少なくとも「丈夫で長持ち」が基本にあるのだと、私たちは先人から教えられてきたのではなかったか。だからこそ「大切に使うこと」が、作られた物に対する使う者の心構えだったはずである。そしてそのことを知っている者がそうした使う人の思いに応えるべく「作ること」に向かったのであり、そうした思いへの積み重ねを「職人」と呼んだのだと思うのである。

 そうした思いは職人だけのものではなかったような気がする。衣服のお下がりだって、継ぎはぎの当たったズボンや靴下だって、浴衣がおしめや雑巾に変身するまでの様々、そして食べ物を残さないことだって単なる「もったいない」とか節約のためなのではなく、もっと基本的には「資源そのものが自然からの贈り物」だとする深い心があったのではないのだろうか。

 ゴミとしての落葉は焼却炉で燃やされる運命にあるが、それは同じように庭先で焼き芋をもぐり込ませるために火を付けられた落葉とはまるで意味が違うのである。
 落葉に「もつたいない」の思いは必ずしも当てはまらないとは思うけれど、燃やすことが余りにも当然のこととしてゴミ袋に詰め込まれて草むらに積み重ねられていく現実は、なんだか奇妙な違和感を呼び起こすのである。

 「それじゃあ、どうすればいいんだ」と問いかける声が聞こえる。ゴミとして処分することに人間の傲慢を感じるというのなら、他にどんな方法があるんだと聞かれるのは当然のことかも知れない。にもかかわらず私はそうした問いに対する答を持っていない。言いっぱなしで対案を示さない意見などまさしくゴミだと、私自身も感じてしまう。ただそれでもどこか変だなと感じられて仕方ないのである。
 世の中の仕組みは今や「人、金、物」がないと決して動き出すことはなく、一人ひとりの思いなど届かぬようにがんじがらめに構築されてしまっているのだろうか。



                          200711.12    佐々木利夫


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落葉の行末