数年前に国産のYS−11の製造はおろか飛行までもが中止され我国の航空機産業も挫折したかと思われたが、最近米ボーイング社の新型旅客機の主翼が日本で製造され輸出されたとのニュースを見た。
 翼だけの輸出というのはどことなく落ち着きが悪いけれど、この話を受けて朝日新聞はリンドバーグの大西洋横断の快挙、「翼よ、あれがパリの灯だ」を紹介していた(5月21日、天声人語)。

 この記事を読んでふと思い出したことがある。リンドバーグはもちろん1927年に25歳で大西洋単独無着陸横断飛行で世界に名を馳せた人物ではあるのだが、その後一歳8ヶ月の息子を自宅のベビーベッドから誘拐され、直後に殺害されるという悲惨な事件でも知られている。

 事件そのものは1932年に発生し、逮捕された犯人の死刑執行は1936年と伝えられているから、ともに私の生まれる前のことであり、当時としてはそれなりマスコミを賑わした事件ではあったのだろうがそのことについての記憶がまるでないのは当然のことである。
 だだ後年この事件の判決にいたるまでを詳細に記した書籍(ルイス・ナイザー著 「ローゼンバーグ事件の全貌 1976年刊 上巻、下巻」)に触れる機会があり、その本によってアメリカの陪審制度や法律の理解のあり方、裁判制度などについて強く興味を惹かれることになったのであった。

 私は税務職員としての勤務の多くを法令の解釈であるとか、不服申し立て事案の解決などの分野に携わったのであるが、法律の解釈適用、事実認定などにこの本からは多くの影響を受けたような気がしている。

 以下「同書」とはこのルイス・ナイザーの著書のことであり、その本は図書館から借りたのでもあろうか手元にはないけれど、引用した文章は私が読んだ本の中から気になった部分を抜書きした読書メモカードからのものである。この本に関してけっこうな枚数のカードが残っていることは、事件そのものよりもこの裁判における裁判官の姿勢や陪審員としての心構えなどについて私に訴えるものが多かったということなのであろう。

 「虚栄心は名誉心よりも沸騰点が低いのだ」(同書下巻P36)

 人が生きて生活していくということはその多くは虚栄心との同伴でもある。虚栄心がすべて悪いことだとは思わないけれど、一番厄介なのは時に虚栄心が偽善につながってしまうことである。そしてそれが更に厄介だと思われるのは、そうした偽善が私自身のあちこちに紛れもなく存在していることを折にふれ感じてしまうことである。

 「法はあらゆる社会科学のうち最も複雑であり、絶対確実というつめたい成層圏に到達することは期待しえない」(米連峰最高裁長官 チャールズ・エヴァンス・ヒュースの発言、同書上巻P16)。

 「裁判制度といえどもせいぜいが正義の近似値に過ぎず、無瑕(むか)の高みから下されたお告げではない」(同書上巻P16)。


 モーゼの十戒のような神との契約までをも「法」と呼んでいいのかどうか確信を持てないままにこんなことを言うのは変だとは思うけれど、人が他人とかかわりを持つことで人として生きていくことを許容されているのだとするなら、法の存在はその許容のための不可欠なシステムであり約束事である。

 だからと言って「悪法も法なり」と断ずるほどにも法を絶対視することにはどこか躊躇がある。だとするなら揺らぐのもまた法としての宿命なのだと割り切るべきかも知れないけれど、あからさまに「揺らぐこと」そのものを法の中に認めてしまうことにもどこかで潔しとしないものが残る。

 「正義には多数の道がある。われわれはそのすべてを歩いてみなければならんのだ」(米最高裁ダグラス判事、同書下巻P212)。

 正義とは一体なんだろうかというついてはこれまでも色々と思い悩んできたし、エッセイでも幾度となく触れてきた。もしかすると物事にはいくつもの正義が存在するのかも知れないと思うことすらある。ダグラス判事のこの言葉は、恐らくいくつかの正義の存在を前提にしたものではなく、一つの正義へ到達するための道筋の多様さを語ったものであろう。

 山頂への道筋は多くとも到達する頂上は一つだと私たちは幼い頃から教えられてきた。だが道を踏み迷ってしまったとき、もしかしたらその道は別の山の頂へと続いているのかも知れない。世の中には富士山以外にも数多の山頂があり、それぞれが独立の頂上として存在を誇示しているのだから。
 霧に迷う中で今立っている頂上がどうして富士山頂なのだと確信することができるだろうか。思い切って「正義もまた多様なのだ」と割り切ってしまうことを、どこまで己に許したらいいのだろうか。

 「法は生命のない、ゆるぎない構築物ではない。生きて息づくメカニズムであり、思想の発展や規範の変化につれてうごいたり生長したりしている。したがつてたとえ現状維持を望む人に変化の影響が及んでも、嘆くことではない」(同書下巻P201)。

 ともすれば我々は正義を揺るぎないものとして理解し、同時にそうあらねばならないものとして望んでいる。そして法はその正義の実現のための確信的な手段なのだと思おうとしている。だがこの言葉はそれが誤りだと、あまりにもあっさりと伝えている。生長する正義とは、果たしてどんな形をしているのだろうか。

 「まだ控訴すべき上級審のあるときは、反対意見は敗訴者側の慰めとなりうる。・・・しかし、最高裁より上には神しか訴えるところはなく、神は地上の裁判制度に干渉する権能をひきうけない。したがって最高裁こそ・・・最後の誤謬をおかす権利をさずかっているものなのである。(同書下巻P247)。

 私はこの本の中で、やや開き直ったこの言葉が一番好きである。日本では最高裁の判断は特別に判例と呼ばれ、下級審を事実上支配することになることから学説や論文などに引用される機会が多い(恐らく諸外国でもそうであろう)。
 そして裁判における判断はあくまでも当該個別の事件に対する個別の判断であるにもかかわらず、最高裁の判断はこれからも発生するであろう類似の事件への判断の先例としての意味を持つところから社会の動きにも影響を与えることが多い。

 そしてその最高裁の判断は結果として神に次ぐ判断であり、しかも神は事件に関して無関心であることをこの本は言っている。それは人が人を裁くことの重さを、逆に支えきれない重さなのだと伝えたいのかも知れない。

 「社会の良心をいかにして証明するのか。とうてい知りえぬことである。社会なり多数者なりが、じっさいにどう感じているかはほとんど知りえず、正確に知ることはまったく不可能なのだから、それはつかみどころのない影に似ている。」(控訴審でのジェローム・フランク判事、同書下巻P171)。

 判断とはいったいなんなのだろうか。刑事訴訟法317条は「事実の認定は、証拠による」と極めて簡潔に要件を定めた。事実を認定しその事実に法律を適用して判断を示すのが裁判である。この法律は刑事手続きに関するものではあるが、私法でも行政でも、事実の認定こそが判断のための必須の要件である。
 そして刑事訴訟法は更にその証拠の証明力を裁判官の自由な心証形成に委ねた(318条)。自由な心証形成とは決して裁判官の恣意的な裁量ではない。恐らくフランク判事の言う、社会の良心ともいうべき確信を裁判官に求めたものであろう。人はどこまでその重さに耐えられるのであろうか。

 「信用性とは・・・確率の法則にもとづくものである。人生の大半を象牙の塔で過ごしてきたで裁判官は、この点では素人にたいしてなんら優越することがない」(同書下巻P99)。

 「我々は陪審員に、同情や偏見にうごかされてはならないと説示するが、しかし、他のどの分野でもと同様、理想が達しがたいものであることはわかっている」(同書下巻P33)。


 国民による裁判員制度があと2年で導入される。最高裁事務局などで裁判員としての資格審査のための質問であるとか参加者への日当などの検討がされ始めている。ただそうした準備などとは裏腹に、一番肝心な正義をどう捉えるのか、事実の認定とはどういうことなのかと言った法を適用するための基本となる考え方が、いまひとつ国民に浸透していってないのではないかとの思いが強い。

 私は税務職員としての40年に近い仕事の中で、国税不服審判所の職員として6年を経験した。審判所の仕事は課税に対する納税者の不服を、裁判の前置そして行政内部における最終判断として示すことにある。
 もちろん裁判手続きとはかなり異質なものではあるが、それでも事実の認定と証拠の採否、そして法令の適用、合議による判断、判決文に似た裁決文の作成などなど、一つの最終判断であることへの責任の重さ、そして事実とは何かの迷い、法令の解釈の妥当性など悩むことも多かった。

 そうした中で、時に記憶から湧き出してくるのがこのローゼンバーグ事件に携わった多くの人たちの意見であった。この本を読んだのがいつ頃だったのか今となっては思い出せないほどであり、全体像なども遠くかすんでしまっているが、今でも手元に残っているカードが最近の裁判員制度や日本の航空機産業の翼の輸出などの話題をきっかけに、様々な思いを引き出してくれる。



                          2007.5.23    佐々木利夫


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