中古品の買入れをしている東京の繁華街の場末にある、多少怪しげに見えるカウンターでの店員と客のやりとりを映したテレビ番組を見た。
 子供連れの夫婦が結婚指輪を売りに来ていた。店としては売値がせいぜい12万円くらいなので買値は8万円が限度であると話している。そのことはどうでもいい。私にはその指輪の真贋も市場価格も知らないから、互いに納得しての取引ならば価格や差益にどうのこうのと言っても仕方がないことである。

 売買は主に妻が交渉に当たっていた。顔はモザイクで隠してあったが、身なりなどからして明日食うに困るほど切羽詰った状況には見えなかった。真偽の程は分からないが、子どものためにいいものを買うためにお金が欲しいのだそうである

 確かに指輪は物体として単なる「8万円の動産」である。見て楽しいものでもないし、腹の足しになるものでもない。だが、その指輪を夫婦で揃って売りに来たことになんだか割り切れないものを感じてしまったのである。
 妻がこっそりと生活のために質屋に足を運ぶことなら納得できると言いたいのではない。だが、ことは結婚指輪である。なんだか結婚に対するその夫婦の想いの軽さみたいなものを見てしまったようで、どうにもやり切れないものを感じてしまったのである。

 それじゃあ何でもかんでも大事にすればいいのかと言われれば、私にも逆の意味で処分できないでいる物がないではない。現在マンションの一室を書斎もどきの私室として独占して使っているのだが、一方の壁全面に貼り付けるように三段式スライド書棚が天井までの空間を占めている。その書棚に押し込められている本の数々・・・、何度か整理を考えつつもその都度そのままになってしまい、逆に新しく買う本が増えていく始末である。
 おまけにワンルームとは言いながら事務所にも書棚が三本もあり、開設以来間もなく9年、そろそろ雑多な書籍が溢れだして来ているからこれもまたなんとかしなければならないだろう。

 物にはそれぞれに想いが詰まっている。指輪にも本にも家具にも衣服にも、恐らく身の回りのすべてに手に入れた時の想いが重なっているはずである。それは子供の頃に宝物として小箱に詰め込んだビー玉や河原の小石や色つきのガラス片などとも共通する思いであろう。

 時は色々な想いを流していくものだから、この夫婦の結婚指輪に対する想いもまた結局子どもの欲しいものを買うと言うこととの比較の中に埋没してしまう程度のものなのかも知れない。
 ユダヤ人は強いられた流浪の生活のために全財産を持ち運びのできる指輪や宝石に代えて身につけておく術を得たと聞いたことがある。それはそれで生き抜くための避けられない手段だったであろうことを、身につまされる思いで理解することができる。

 だがこの夫婦の態度には指輪に込められた結婚などへの匂いはもとより、手放さなければならない切羽詰った状況などどこにも感じることができなかったのである。
 「世の中こんなものさ」と醒めてしまうのも一つの生き方だとは思うけれど、生活の中から少しずつ味わいというか余韻というか、そんな情緒的な想いが消えていっているような気がしてならない。

 今や「物」に気持ちなどを込める余裕などない時代になってきているのかも知れない。タンスの中には溢れるばかりに洋服が詰まっているし、ブランドのハンドバッグもそれほど使わないまま押入れの隅に眠っているケースも多いと聞いた。
 飽食もそうだけれど豊かさを超えて染みこんできた「物」の氾濫する時代は、私などが理解しているような「もつたいない」とか「倹約」だとか、はたまた「まだまだ使えるじゃないか」などと言った思い入れなどをすさまじいまでの速さで遠くへ押しやっているのかも知れない。


                  「捨てきれない 荷物のおもさ まへうしろ」(山頭火)



                          2007.3.20    佐々木利夫


            トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



結婚指輪