具体的な対案を示さない、もしくは示せないままの議論や見解は、たとえそれがテレビのワイドショーで繰り返されるしたり顔のコメンテーター同士の無責任な発言だとしても私は嫌いである。
 とは言っても、これまで発表してきた我がへそ曲がりエッセイの中には主張のしっ放しというスタイルもけっこう多くて、今更もっともらしく正論じみた他人批判などおこがましいとは実感している。

 でも、どこか引っかかることってのは、口の中にできた小さな血豆みたいなもので、気になりだすとそのことがなかなか頭から離れなくなってしまう。

 今月の10日、九州宮崎県の一軒の養鶏場から鳥インフルエンザの発生が確認された。アジアを中心に鳥インフルエンザの伝染は数年前から途切れることなく続いている。この伝染病の問題は単にニワトリへの被害というのみならず、人型への変異が目の前の危険として認識されていることにある。

 つまり今のところこの伝染病の拡大は鳥から鳥に限られており、人への伝染は極めて少ないとされている。つまり「鳥から鳥」が原則で、例外的に「鳥から人」があり、「人から人」へは皆無と言うのが現在での認識である。
 だがインフルエンザウイルスは突然変異が起こしやすいことから、いつ人から人へと感染するタイプに変異しないとも限らないし、もし変異してパンデミック(大流行)にでもなれば手の打ちようがないくらい死者の発生を見るのではないかとの思いが国際的に危機管理が叫ばれている要因になっている。

 しかも仮に人間がこの病気にかかった場合、これと言った特効薬がなく一般的なインフルエンザ治療薬である「タミフル」しか見当たらないこと、そして新しいワクチンを開発するにしても原料の調達や精製などに半年以上を要することなどがこの病気の危機を更に複雑にしている。政府はこのタミフルの備蓄に動いているが、製薬会社が特許の関係もあって外国の一社だけに限られており、場合によっては世界的流行にもつながりかねないことから各国の思惑も絡んで簡単には備蓄も思うようにいかないらしい。

 ともあれウイルスが人型に変異することを人為的に止めることはできないので、危険の基礎となる鳥インフルエンザウイするそのものを国内に持ち込まないことが一番である。
 しかしまだ仮説にしか過ぎないのだがどうもこのウイルスの伝染ルートの一つに渡り鳥があげられており、そうだとすれば国内持込を阻止するのは至難である。

 さて、現実に宮崎県の清武町で鳥インフルエンザが発生した。いまのところ局地的(と言ってもつい2〜3日前に、同じ宮崎県内だが日向市東郷町でも発症が見られた)であるし、人型への変異は確認されていない。さてどうする。

 そこで県や国が中心になって、この感染した清武町の養鶏場のニワトリ12.000羽全部を処分することにした。処分とは、その養鶏場で飼われているすべてのニワトリ、つまり鳥インフルエンザにかかっているニワトリのみならずかかっていないニワトリも含めて全部を焼却するということである。

 今月15日夜のNHKニュースはこのことを、「全てのニワトリの焼却を開始しました」と報道した。殺すとか抹殺したなどとは言っていないけれどやることは分かる。

 ことは伝染病である。手を打たなければ病気どんどん広がる恐れは十分にある。しかもこの病原菌が熱に弱いことは証明されているという。だとすれば、養鶏場に存在しているニワトリ全部を燃やしてしまえという論理の分からないではない。だが分かるけれどどこかストンと気持ちが落ちていかないのである。

 焼却処分と一言で片付けているけれど、死んだニワトリだけではない、半分以上が生きているのである。そのニワトリは生きたまま焼却されるということである。
 都合の悪いものは丸ごと消してしまえ。悪の抹殺に躊躇するな。この地域のニワトリは、存在していることそのもののを悪だと認定せよ。

 確かに我々はそうしたことで病気に対処してきた事実を否定することはできない。毎日の手洗い励行だって、言葉を代えて言えば手についているであろう細菌の全滅作戦である。その細菌が人間に有害であろうが無害だろうが関係なくである。

 我々は蝿や蚊を駆除してきたし、ネズミも同様である。エキノコックスの危険があるからとキツネも駆除してきた。そしてその延長に鳥インフルエンザのニワトリがいる。

 そのニワトリが採卵用なのかはたまたブロイラーとして飼われているのかそこは知らない。ただ、いずれにしてもそれほどの時を経ずして肉用として処分される運命にあることは間違いのないことだろう。牛だって豚だって、毎日何千頭,何万頭と屠殺されているだろう事実を否定するのではない。

 それもこれも命を奪うことに違いはないではないか言われればその通りである。「食べるために殺す」のも「伝染病拡大予防のために処分する」ことにも同じ命ではないかと言われれば反論の余地はないように思う。だがそれでもどこか違うような気がしてならないのである。対案を示せないままに論じることの非を知りながらも、どこか割り切れなさを感じてしまうのである。
 そしてこの問題を「命」という鏡に照らして論ずること自体が誤りなのだろうかとも思ってしまうのである。

 つい一ヶ月くらい前の話である。北海道の阿寒湖や然別湖などに、外来種として生息を広げてきている「ウチダザリガニ」を生態系を守るという理由から5000匹駆除したとの報道があった。

 人間と人間以外とは別なんだとする理屈の分からないではない。人間が一番大切なんだから、それを守るために人間以外の生物を犠牲にすることは当然に許されるのだとする理屈の分からないと言うのではない。

 ただそうした理屈と、ユダヤ人を劣等民族として抹殺しようとしたヒトラーの野望や、悪の枢軸として名指しされて民主主義を守るという大義名分の下で軍隊を派遣されているイラクの現実などとどこかで共通しているような、そんな気がしてならないのである。

 そんなことは考え過ぎだし屁理屈だと言われればそれはそうかも知れない。畑に殺虫剤を撒くこととユダヤ人大虐殺とを一緒くたにしてしまうことは論理のすり替えであり混乱だと言われればその通りだとも思う。
 でもそうした混乱だと思える事柄にしたところで、その二つの事実が遠いかも知れないけれど同じ線上につながっていること自体を否定することはできないような気がするのである。

 人間の体内でだって、それを壮絶と表現していいかどうかは疑問ではあるけれど、入り込んだ細菌と免疫とのまさに命がけの闘いがなされていることだろう。そして蚊や蝿を人が駆除する。そして人はそうした延長線のどこかで命そのものの線引きをしようとする。
 もっとも了解されやすい線引きは「人は人を殺さない」であろう。

 それでもその線引きされた基準はいともあっさりと変更される。害をなす人は殺してもいいのである。犯罪や戦争や宗教上の対立などなど、人が人を排除しても良いと考える理屈は様々に存在する。

 そうした思いの中には、どこかで命を選別する意識、あの命とこの命、私の命と私以外の命、仲間の命と仲間でない者の命とは違うのだとする意識が無意識にせよ働いているのではないだろうか。
 そうした意識が間違いだというだけの根拠を示すことのできないままで言っているのだが、我々はどこかで命の均質さと言うか命の共通さみたいなものをもう一度考え直してみる必要があるのではないだろうか。

 人は食物連鎖を超えて殺戮を覚えてしまった。ニワトリを焼却するのは良い。それでも他に選択肢がないんだと言うことを、少なくとも命を奪うと決めた人たちだけにはギリギリ悩んで欲しいものだと、対案の示せない傍観者の男は心のどこかでうじうじと思っている。



                          2007.1.26    佐々木利夫

         1月28日、ウイルスの型はまだ不明なものの、鳥インフルエンザと思われる症状が岡山県の養鶏場にも
         発生したとの報道があった。九州から中国地方へ、またまた処分と言う名の殺戮が続くのだろうか。




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