教材の訪問販売の元セールスマンだったという主婦の告白じみた話を読んだ(朝日、07.6.5)。会社の研修会で「研修で売るのはいいことだと『洗脳』され、全く罪悪感はありませんでした」と書いてあった。

 彼女は「洗脳」という言葉の中に一切の責任を押し込め、会社を全面的に単独の加害者にすることで、自らもまた消費者と同じ被害者の立場に置こうとしている。だが、読んでいてそんなに安易に「洗脳」なんて言葉は使って欲しくないと思ったし、使うのも誤りなのではないかとも思ってしまった。
 薬品や道具などを本人の意思に反して使い、そうすることでその人間の考え方をコントロールしようとすることを洗脳と呼ぶことに抵抗はないが、「影響される」ことの言い換えに「洗脳」という語を使うのはとんでもない間違いなのではないか。

 そんな販売方法の研修会での内容も「洗脳」と呼ぶのなら、教育も報道も政治も広報も、極端に言ってしまったら自らの学習も、みんなみんな洗脳になってしまうのではないだろうか。
 先人の悟ったエピグラムや裁判の判決にいたるまで、人が人を説得しようとしたり納得させようと考えたり、時には自分の考えを表明する行為、更には「こうしたらいいよ・・・」などと言うノーハウの伝達などのようなものまでが、洗脳のカテゴリーに含まれるのだと言うのだろうか。

 これしきのことにまで洗脳と呼ぶのだとするなら、人の一生は洗脳の連続で、洗脳という語はつまるところ教育や学習と同義ともなる。
 私が日本に生まれ、日本語を話し、中途半端なままながら音楽や数学や文学など下手の横好きの興味をいくつも持っていること、これらもすべて洗脳のおかげだということになるのだろうか。

 「洗脳」という表現こそ使っていないが、最近のマスコミの論調にも気になることがある。日本青年会議所が制作したDVDへの朝日新聞の論調である。私はこの現物を見たことがないので中途半端な評価になるかもしれないが、この作品は「戦後の贖罪意識を批判的に取り上げた」とされるアニメだそうで、内容的には「今の教科書の近現代史は自虐的過ぎる」として日清、日露戦争から東京裁判までの経過を検証する内容になっているらしい。そしてそのDVDを教育現場(中学校)で使ったことに対する批判である。

 記事の書き方としては一応中立性を保っているかに見えるけれど、どうもそのアニメを見た生徒たちが日本の戦争責任を薄れさせられることに疑問を持つような書き方が見え見えである。まるでそのDVDが日本の少年への洗脳を意図しているかのような書き方になっている。

 そう言えば陸上自衛隊の情報保全隊がイラクへの自衛隊派遣に反対する市民活動や情報機関の取材などの情報を収集・分析していたことそのものを取り上げたことへの問題提起にも、逆にそうした活動そのものを国民に対する裏切りみたいに表現することにもどこか変だと感じてしまう。まるで、そうした情報収集そのものが国家権力の国民に対する違法行為であるかのような意識を読者に植え付けようとしている、つまり洗脳しようとしているような気さえしたのである。

 人が影響を受けるであろうすべてを洗脳という言葉であっさりと片付けてはいけないのではないかと私は思い、洗脳という語の中になんでもかんでもひっくるめてしまったら私自身がどこかへ消えてしまうのではないかとさえ恐れてしまうのである。

 「自分の意思」、「私の考え」、「己の主張」、「私の信念」などなど、人は自分自身で判断し決断しなければならない場面に数多く直面する。
 だがしかし、それは本当に「自分で決めたこと」なのだろうか。見かけ上はそんな風に見えたとしても、どこかで例えばマスコミの論調や昨日読んだ本の著者の意見、更には昔習った学校の先生の考え方や、ゲーテやアリストテレスやシェークスピアなどの格言や警句などに、それこそ「洗脳」された結果なのではないのかと考え出すと、多くの自己決定に自信が持てなくなるのも事実である。

 その上洗脳という言葉には、「それは洗脳されたせいで私の意思ではありませんでした」と言う自らの責任を否定する身勝手な思い込みがたっぷりと含まれている。あたかも「洗脳」という語が他人に与えた迷惑や影響を自らの責任ではないとあっさりと否定し逃避するための呪文でもあるかのように・・・・。



                          2007.6.14    佐々木利夫


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