確定した死刑囚で死刑の執行されない者が100人を超えそうだと昨年末の朝日新聞は報じ、その数を12月24日現在98人だとしている。

 死刑廃止の議論は多々あり、そうした議論の重ねられることに異論はない。だが制度として確定している現在の法制度のもとで、一年数ヶ月前のことは言え一国の法務大臣が「私の思想信条として死刑の執行には署名しない」と言ったと伝えられたことには失望を隠せない。
 この話しは杉浦正憲前法務大臣の発言である。刑事訴訟法はその457条で「@死刑の執行は、法務大臣の命令による。A前項の命令は、判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない。」と規定しているにもかかわらずである。
 もっとも法相としてこの発言は不適切だと理解したのか一時間後には訂正したようだが、任期中現実に一人の死刑囚への執行の署名もしないままに退任してしまったことは法治国家の最高責任者としての職務意識の持ち方にどうしても納得できないものがある。

 刑法199条は「人を殺したものは、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する。」と定めた。世界中で死刑廃止の動きがあり、法制化されている国も多いと聞いている。
 死刑廃止の動きは単に人道的な「命の重さは地球よりも重い」を背景にするだけではなく、例えば冤罪の問題であるとかアメリカなどでは同じような犯罪に対して黒人のみに死刑判決が偏るなどの事実上の偏向が見られることなども要因の一つにあげられている。

 死刑制度の是非についてはもう少し考えたいと思っている。今日はそのことではない。なんだか最近死刑判決がやたらと多くなってきているような気がしているからである。
 それだけ残酷な犯罪が多発しているのだと思わないではないが、そうしたこと以外に間接的に検察官や裁判官に死刑の求刑や判決が強制されているのではないかとの気がしないでもない。

 一つの事件があり、死刑が求刑され死刑の判決が出る。死刑は刑務所内で絞首して行うこととされていて(監獄法71条、72条)、その場に被害者の親族や関係者などが立ち会うことはないけれど、それでももっとも重い刑罰であることからそうした刑罰を望む声も多い。
 ただそうは言っても死刑によって「死んだ人間が生き返るわけではないし・・・」と多くの関係者が話すのもまた事実であり、死刑判決が心理的にもせよ果たして被害者やその関係者の救済として機能するのかは疑問なしとしない。

 そのことはとも角として、最近の死刑判決の増加の背景には単なる犯罪の悪質化以外の原因があるように感じられるのである。
 それは裁判官が死刑判決の増加に加重的に流されているのではないのかとの思いである。1人の裁判官が死刑判決を出す。そのことに他の事件の裁判官が引きずられ、判断が累進的に加重されていくのだとしたら、死刑は本来の法解釈から離れてしまうのではないか。

 司法といえども時に権力におもね、時流に迎合してしまうことのあることを私たちは世界の歴史の中で知っている。
 三権分立を絶対無比のシステムだとは思わないけれど、私は今の制度が好きである。四角四面の頑なな解釈だと言われようとも、情も涙もない判決だと責められようとも、司法が法律のみにしたがって判断する現行の制度が好きである。

 友人の中に先日最高裁が判断を示した代理妻の出産した子(子宮の摘出などで妊娠出産のできない夫婦が、自らの卵子と精子による受精卵を他人の子宮を利用して出産したその子)を自子として認めなかったことに批判する者もいるが、立法として今後どうすべきかはともかく現行法の解釈としては妥当だと私は思っている。
 彼の論法は、黙ってこっそりと出生届けを出していれば受理された案件なのだから、申請者が有名人で話題になったからと言って拒否しなくてもいいじゃないかというものである。気持ちとして分からないではないし、日本人は「法にも涙あり」の解釈が例えば大岡裁きなどに見られるように、情緒的な運用が好きな人種なのかも知れない。

 だが司法とはその文字の通り「法を司る」ものである以上、本件のケースでは親族の関係における民法は、出産と親子関係が分かち難いものとして作られている。ならば法律を改正するならばともかく、行政も司法も勝手に法を超えて解釈してはいけないのである。
 司法に対する信頼はそこにあるのではないのか。四角四面だからこそ人は法を信じ裁判を信じられるのではないのか。例えば民法が法律規範だと言われているのは、民法にしたがって生活せよと言うのではなく、当事者間で対立した場合にその解決のために司法が拠りどころとする根拠を示したものであるとでも解すべきものだからである。

 だから司法は流されてはいけないのだと私はなんだか頑なに思っている。厳格な法律の中での解釈のみが法の動ける範囲なのではないのかと思い込んでいる。
 裁判は裁判官の自由心証主義が基本とされている。気ままな判断というのではなく、冷徹で真っ直ぐな判断能力を専門家である裁判官に求めたものである。

 判断は時に三人の合議が求められ、場合によっては最高裁のように十五人の全員合議もないではないけれど、それでも偏らない流されない判断が望まれているのである。
 だから私は現在の裁判制度を信頼しており、それに携わる裁判官個々の資質に全幅の信頼を置いているのである。

 2年後には裁判員制度が実施される。重罪事件にこの制度が適用されることになっているから、当然に死刑判決にも一般国民が参加することになるのだろう。陪審制度とは異なって裁判官との合議が基本のようだから流されるとは言ってもそんな情緒的なものではないだろうとは思うけれど、それでもどこかで人は流されるのではないか、事実認定のみから厳格に法律を適用することは難しいのではないのか、そんな思いから離れられないでいる。

 そして今、執行されない死刑判決に改めて死刑判決とはなんなのだろうかと思ってしまうのである。執行されない法律は、法治国家としてやっぱり法律の無視になるのではないかと・・・。



                          2007.3.29    佐々木利夫


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執行されない死刑判決