東京で一年数ヶ月もの研修を受けていた時のことである。その頃ポジフィルム(スライド映写機などで直接見るもの)に凝ってあちこち撮りまくっていた私に、寮の同室だった仲間から富士山の写真を撮りにいかないかと時々誘われたことが発端だった。それまで山登りはおろか小高い丘ですら登った経験がなく、そもそも「登る」ことそのものにほとんど興味のないのが私のこれまでであった。

 富士山は天気のいい日なら東京新宿の寮の屋上からも小さいながら見ることができる。もちろん天下の富士山である。その周りにはたくさんの観光地や温泉がひしめいているし、私の最初の京都までの個人旅行の中にも富士五湖めぐりが入っていたから富士山はそんなに珍しい風景ではない。また東京での仲間との旅行も富士山の見える地区が比較的多かったし、富士山の写真などいたるところで見ることができた。

 ただそうは言っても箱根であるとか甲府などなど、観光地としてたまたま富士山が近くにあるというだけであり、時に富士山を背景に記念写真を撮ることがあるにしても、富士山そのものの写真を撮ることを目的とした旅行の経験はなかった。

 最初は平地からの撮影が多かったのだがそのうちに三つ峠(山梨県、河口湖畔から)がいいとやら中里介山の小説で有名な大菩薩峠(山梨県、中央線の塩山駅から歩く)からの眺めがいいとやら、赤富士(朝焼け、夕焼けで山肌の赤くなった富士)を撮りたいななどと少しずつ贅沢になってきた。
 更にそのうちに谷川岳って知ってるかいとか、日本で富士山の次に高い山知ってる?などと段々に乗せられていった。富士山に次ぐ高い山とは北岳(3192m)であり麓の夜叉神峠からは北岳はもちろんのこと小さくてかわいい富士山も見えるなどと言われては峠登山の苦労なんぞは吹き飛んでしまう。

 そんなこんなと撮影拠点を移しているうちに、たまには気楽に山へ登ってみないか、簡単な山だし剣岳(つるぎだけ)の写真もいいぞと誘われたのが北アルプスの唐松岳(2696m)へのきっかけだった。
 研修の終了まで残すところ一ヶ月少々、卒論もとりあえず第二稿(当初原稿の補正)が仕上がって担当教授に提出した直後で比較的のんびりできる時期である。いずれあちこち卒論の手直しも出てくるだろうが当面呼び出しもないだろうから一週間程度の余裕は十分にあるだろう。

 さりながら今度の行程は今までの富士山撮影のように気楽なものではない。普段着にズック靴のこれまでの峠道などとは異なって、本格的とまではいかないまでも一応は登山である。少なくとも上着や手袋などは今あるもので間に合うが、靴だけはどうしても必要だと言われた。もっとも本格的な登山靴でなくてもいいと言われたので、新宿の山岳用品店を訪ねてズック製のキャラバンシューズと呼ばれている簡易な靴を揃えることにした。

 天候が悪くなったら即座に中止して戻ることにしようと決め、5月中旬の新宿駅から中央線経由の夜行の急行列車に飛び乗った。
 翌朝降り立った国鉄(現JR)大糸線白馬駅(はくばえき)が、それまで言葉でしか知らなかった「白馬」という名前を体験した最初の出会いだった。

 駅前からバスで八方まで行き、そこからゴンドラに乗り継いで登山開始。うさぎ平、八方尾根、八方池を通ってひたすら歩を進めるのみである。道はしっかりしているが少しざっくりの雪道である。快晴とまではいかないものの穏やかな天候で、山頂付近も特に荒れている様子はない。

 10時間近くもかかっただろうか。夜行列車で朝早く着いた白馬駅から山頂の山小屋に一泊するまでのゆっくりの登山である。それほど急ぐ旅でもない。そうは言っても2700mの山は、途中までリフトやゴンドラの助けを借りたとはいいながら馴れない登山素人の我が身にしてみれば大変な高さである。歩き始めて分かったことがある。2〜3分おきに小休止をとらないとすぐに息が切れてしまうのである。始めのうちは山登りで足腰が疲れるからだろうと思ったのだがそうではなかった。とにかく空気が薄いのである。エベレスト登山隊にとって酸素ボンベが省略できない必需品であることをこの身で実感することになったのである。

 ようやく稜線というか尾根にたどり着く。ここが長野県と富山県の県境であり北アルプスの分水嶺である。登山道の突き当たりに唐松山荘、右手に20分ほどのところに唐松岳の山頂があり、そこを過ぎて白馬鑓ヶ岳(はくばやりがだけ)、そして白馬岳(しろうまだけ)とつながつているようである。山荘を左に過ぎると五竜岳(ごりゅうだけ)に行けるようだし、それぞれに登山家垂涎の名山らしいが、初めての登山家にとってここ唐松岳だけで十分である。

 素人にも名山の誉れ高い剣岳がここからはっきり見えるのだと言われてここまできたのだが、残念なことに今日の山頂は霧に囲まれている。とも角も目的の唐松岳山頂へと向かう。この頂が標高2696mである。あと僅か4mで2700mだが手を伸ばして届く高さではない。近くに他の登山客も見えないので手近な小石を拾って真上に放り投げこれで2700m達成と一人悦に入る。
 周りは霧に囲まれているがほんの僅かの時間突然に背後から雲を通して日の光が射し込んだ。なんと「ブロッケンの妖怪」が目の前に表われる。虹色のリングに囲まれた私のぼんやりとした姿が霧の中に映り込む。

 それにしても今日はこんな霧の中、目的の剣岳の勇姿を見ることは難しいようである。山荘に戻って部屋に入るが、とにかくなんにもすることがない。もちろんテレビもラジオも無縁の世界であり、持参してきた文庫本一冊とあと山荘の廊下の隅の登山客が置いていった数ヶ月も前の週刊誌数冊のみである。二人連れとは言っても一年以上も寮の同室で暮らした仲である。それほど目新しい話題が続くわけでもない。敷きっぱなしのふとんに潜りこんで薄汚れた漫画週刊誌を読むだけである。自家発電がされているらしく小さな裸電球が薄暗く灯っているだけで、心もとないことおびただしい。記憶にないけれど消灯時間も早かったことだろう。翌日の剣岳に希望を託して早々に寝ることにする。
 あぁ、こんなことなら多少重くともウイスキーの小瓶か日本酒の四合瓶でもリュックに詰めてくるんだったと後悔しても後の祭りである。

 翌日になった。早々に目覚めて窓の外を覗く。なんたることか荒れてはいないものの霧模様の天候は昨日と同じような状況のままである。
 どうする?。仲間と顔を見合わせる。目的は剣岳の撮影である。白馬岳や五竜岳へ向かうという方法もないではない。だがそうした山はすぐ目の前ではあるけれど本格的な登山装備が必要であり、ここまでのルートの延長というわけにはいかないようである。

 朝飯を食いながら、残るか下山するか悩む。その朝飯にしたところが、ここは温泉旅館ではない。はるか2700メートルもの雪に埋もれてこそいないけれど山小屋である。四角な弁当箱もどきの入れ物に飯を半分くらい詰め、その上に海苔(むかし古新聞古雑誌などの再生紙として利用していた茶色のチリ紙によく似てる)を乗っけて醤油を垂らしただけのものであり、味噌汁もどきが椀に一杯、それだけである。酒ナシ、ビールナシ、おやつナシ、時間つぶしの方法ナシ、風呂ナシ文字通り「ナンニモナシ」の状態である。

 当時はタバコを吸っていたがマッチが切れた。山荘の管理人に「マッチください」と声をかけたら、「何本ですか」と聞かれてしまった。喫茶店や居酒屋で小箱の宣伝マッチをもらうのとは訳が違う、ここは標高2700mなんだと改めて思い知らされる。

 しかし初志貫徹こそ男の本懐である。もう一泊しても研修や授業に支障はない。不味い飯も、断酒も禁煙も無為の連続経験も、長い人生の貴重な糧となるだろう。もう一泊したからと言って剣岳を眺めるチャンスが巡ってくる保証はないけれど、信じることこそチャンスの前髪でもある。それに、これほどの山へ登るチャンスなどこれからも決して我が身に訪れることなどまずはあるまい。

 ただしもう一泊するといっても、昨日の山荘到着からの一泊とは訳が違う。みすぼらしい飯を食う以外はなんにもすることがない「まるまるの一日」なのである。数冊の二度目の週刊誌もすぐに飽きてしまうし、いかに現代人がメデイァなどの情報に振り回されているかを身を以って体験することになる。

 それでもやっと二日目の朝が来た。恐る恐る窓から外を眺める。見えた。剣である。剣岳の姿を私は知らない。だが山荘に張ってある写真と同じ姿が目の前に広がっている。天気は晴れとは言えないけれどそれでも曇り空のなかに雪に覆われた剣岳の険しい山膚が広がっているではないか。
 山の天気は変わりやすい。眺めている間に雲が広がってきて山膚を隠し始めた。でもこれでいいのである。我々二人は唐松岳まで登ってきて確かに念願の剣岳を眺めることができたのである。僅かの時間にしろ二泊の無為を補って余りある達成感にいま到達することができたのである。

 下りの山道は登るよりも辛いというが、満足感に満たされまだまだ足も元気である。それに高山生活二泊で慣れたのか(?)少なくとも息切れだけは感じなくてすむ。八方尾根につく頃の下界は汗ばむほどの陽気である。
 白馬駅出発まではたっぷりの時間がある。途中で見つけた志鷹山荘で数日ぶりの風呂に入る。缶ビールが美味い・・・。
 さあ、また夜行の急行列車に乗って朝の新宿へと向かうことにしよう。寮に戻ってもまだ朝飯には間に合う時間だろうし、何食わぬ顔でその日の授業にもなんとか間に合うはずである。



                          2007.4.7    佐々木利夫


            トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



私の登った一番高い山
        (2696m)