釈迦が説教した寺院だと伝えられている祇園精舎の鐘の音は、諸行無常を告げていると平家物語は語り始めるけれど、栄枯盛衰の人生に死亡率100%の人の身を重ねるなら、人の世の無常は誰にでも現実なのだと知ることができる。

 さて鐘といえば今日は大晦日、除夜である。日本中のお寺が人間の煩悩を鎮めるために108の鐘を撞いて新しい年の始まりを知らせるのだと言う。我が家の近くにお寺などなく、真夜中をかけて初詣に出かけるほどの意気込みも失せてしまっているこの歳だから、除夜の鐘もせいぜいがNHKのテレビ番組「ゆく年くる年」で一つ二つ耳にするのが最近の恒例になっている。

 平成19年が間もなく終わろうとしている。平成という年号そのものにどことない違和感を覚えたのはそんなに昔のことではなかったような気がしているのに、それがもう20年にもなろうとする現実に改めて己の越し方をしみじみと感じてしまう。

 ところで除夜の鐘が108つなのは、来世、今世、来世の三世にわたる煩悩の数を表すとも、四苦八苦(4×9+8×9=108)の語呂合わせだとも言われているが、それだけ人間には迷いが多いことを示しているのかも知れない。

 さて、今年の元旦にエッセイ2本を毎週月曜日に発表するぞと自分に言い聞かせ、一年52週で104本を目指すことにした。ところで今年は元旦が月曜日に当たり、都合よくストックが2本あってスタートから順調に自己負荷をクリアできたこと、そしてなんと大晦日の今日も月曜日で今年は一年間で都合53回の月曜日があったらしいことから、この作品が当初計画の104本を超えて106本目になった。

 作品の数で我が身の煩悩退治を試みようとしたわけではないのだが、その106本が除夜の鐘108つとどことなく似ていることから、この数を無理やり重ね合わせようとするなら、あと2つの作品を追加することでなんとか煩悩鎮めができるのではないかとふと余計な考えが頭に浮かんだ。

 エッセイのネタは書き散らしたままの未完のものがまだ何十編も机の隅に積んであるので、内容の好き嫌いや満足度はともかく2本くらいの追加なら書いて書けないことはない。
 だとすればこの大晦日で煩悩退治もどうやら可能になるか・・・と不遜にも思ったとき、これもまたなんと突然に鐘にまつわる浄瑠璃の文句が頭の隅に鳴り響いた。そのフレーズは作中の人物が鐘の音を聞きながら「残る一つはなんとかかんとか」と語りだすものであった。

 なんたって頭に浮かんでしまったのだから仕方がない。だがそれが誰のなんという作品のどんな言葉だったのかどうにも喉下に引っかかったまま思い出せない。無理に思い出さなくてもいいのだけれど、よりにもよって除夜の鐘の連想で出てきたのだから無視してしまうわけにもいかず、第一、気になってしまった以上何とかしたいと思うのが私の性分でもある。

 「残る一つは・・・」を何度か頭の中で反芻しているうちに思い出した。近松門左衛門の作品の一節である。物語のどんな場面で使われているのか定かではないが、こんな文句であるとどうやら記憶の糸をだぐり出すことができた。

 「七つ鳴る鐘六つまで聞いて、残る一つが冥土の土産」(曽根崎心中)。

 何のことはない、この鐘が鳴り終わったら二人そろってあの世へ旅立とうとの宣言ではないか。心中と道行の場面は歌舞伎でも浄瑠璃でも物語の山場ではあるけれど、少なくともこの物語の鐘は時刻といいその数といい除夜の鐘とは無関係である。
 それはそうなんだけれど、だからと言ってあと2つの作品で除夜の鐘になるとの私の思いつきと一脈相通じるものがあるではないか。しかもこれらをつなぎ合わせると、2つ書き終わってそれが冥土への土産になるみたいなものだから、ことは縁起でもない話になってしまう。

 かくして108つの作品を仕上げることは変なゲンをかついで断念することにしたのである。年の初めの週2本の覚悟はきちんと守れたのだから、それで良しとしたのである。へんな除夜の鐘の数に惑わされたことなど考えないことにしたのである。

 だから今年の煩悩退治は2つを残して未完に終わったのである。どんな煩悩が残ったのかは必ずしも定かではないけれど、いかにも無常を悟ったかのように書き始めたこのエッセイの途中にして、意馬心猿のこの身にとってみれば残ったままになっている煩悩は、少なくとも色欲と物欲と金欲の中の二つ、もしかしたら三つともかも知れないとだけは察しがつく。

 だが考えてみれば煩悩が残ってこその人間だと、これまたしみじみと感じてもいる。煩悩をすっかり追い払って聖人君子になったところで、そんな悟りの世界に人としての楽しみなどあるのだろうかとも思うのである。
 毎年毎年除夜の鐘は同じ数だけ鳴り響く。そのことは煩悩もまた人が生きている限り払っても払っても少しずつ増えていくのだということを示しているのであり、そのことは逆に払いのけられないからこそ人間なのだと宣言しているのかも知れないのである。
 いくつかの煩悩を残して凡人、俗人のまま歳を重ねていくのも悪くはないと、このエッセイのポーページへのアップロードの準備をしながら、今日は少し早めに自宅に帰ろうかと大晦日の夕暮れを感じています。

 今年はいい年でしたか。何がいい年の目安になるのか必ずしも分かってはいないのですが、私にとってみれば今晩の酒がしみじみとおいしく飲め、明日の元旦の酒もまたささやかに美味いと感じることができるなら、それがいい年の証になるのかななどと感じています。

 この一年のご訪問、閲覧ありがとうございました。皆さんにとって、明日から始まる一年が今年以上にいい年でありますようにお祈りいたします。



                          2007.12.31    佐々木利夫


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諸行無常の響きあり