北海道教育委員会(道教委)が小中高生を対象に実施した「命の大切さに関する意識調査」の結果が新聞に掲載された(朝日、9.5)。それによると4人に一人(24.3%)が「家族や友人たちから必要とされていると感じない」と答えたそうである。調査は更にこの内訳を、小2 17.2%、小6 24.3%、中2 27.3%、高2 31.9%と報じている。
 この数値の変化は、まるで人は少しずつ自分の存在を希薄化しつつ成長していくのだということをあまりにもあっさりと示しているような気がする。

 そして調査はまだ続く。「家族や親類など身近な人が死んで悲しいと思ったことがあるか・・・」。この問いに対して「いいえ」と答えた児童・生徒は10.2%である。この割合を多いと見るか少ないと見るかは人様々だろうが、私はこの答えに身近な者の死さえも遠くなっていってるのではないかと感じ、その延長線上に他者の死がつながっているのではないかと感じてしまったのである。
 自らが希薄化し、身近な者も含めて命そのものが遠くなっていく、それが現代なのだと子どもたちは我々に教えてくれている。

 同じ朝日の朝刊には、訓練を受けていたにもかかわらず、そして目の前で心臓発作で倒れた人に自分としては的確にADE(自動体外式除細動器)を使用したにもかかわらず、蘇生させることのできなかったことを悔やむ男の話も載っていた。

 この二つの記事を読みながら、「命」というものを何か一つのかたまりのようなものだと世の中が思い込んでいるような気がしてしまったのである。ADEのボタンを押すことがあたかも生命復活の呪文でもあるかのように人は思い込んでいるのではないかと思い、そして社会は簡単な講習を受けることで誰もがその呪文を唱えることのできる魔法使いになれるのだと信じ込ませようとしているのではないかと感じたのである。あたかもそれはリセットすることで時間を遡って生き返るゲームを見るようである。

 だから「救えない命」のあることなど誰も考えようとはしないし、ましてや教えようともしない。命はまるで掌の上で自在に転がせるビー玉のように軽くなってしまっているのである。

 人は(私もその中に当然に入るのだが)命を一つの物のように考えてしまいがちである。命を数えることの不自然さはこれまでにも何度かこの場で取り上げたけれど、日本語には「命」という語はあるけれど、「魂」ってのは本当の意味であるのだろうかと、ふと考え込んでしまった。
 そして私はこれまで、色々な意味で「命」をテーマとした多くのエッセイを書いてきたけれど、一度たりとも「魂」を見つめたことなどなかったのではないかと気づいたのである。

 「命」には「魂」も含まれているのだと理解し説得することは可能である。仰々しく「魂」などとことさらに取り上げたところで、「魂」などどこを探したって見つかるものでもないし、それは一体何なんだと問いかけられたとしても、見せることはもちろんきちんと説明することだってできはしない。だからと言って「魂」を死後もこの世にとどまって生きている人間に関わりをもつような超常現象的や幽霊やオカルト現象などに押し付けてしまうつもりもない。

 だが「命」と「魂」は違うのだと、私はどこかで思いこんでいる。「命」は数えられるけれど、「魂」は数えられない、数えてはいけないものだと思っているからである。

 戦争で何十万人が死に、交通事故や病気や災害で何万人もの人が死ぬ。その死は統計的な数えられる「死」である。日本の自殺者が3万人を超えるというその3万は数えられる「死」である。
 しかし「魂」は3万ではない。「魂」は一つの「個」である。社会や家族や友人などとのたくさんの関わりを持つ「個」であり、それ以上に私自身が私が存在すると理解している「私としての個」が「魂」である。

 「死」を数えだした頃から、人は「死」を少しずつ軽くしていったのではないだろうか。1人の死よりも100人の死のほうが重大で意味が違うのだと思い始めたのではないだろうか。
 それが核家族化によるものかも知れないけれど、大家族での生活とは異なって確かに人が身近に死を感じる機会は少なくなった。医療制度が充実してきて人は家庭ではなく病院で死ぬようになってきた。それでも人の死は決して数ではなかったはずである。近所づきあいも含めて身近な人の死が死であり、その人との関わりの中で死は意味を持っていたのではないだろうか。

 そうだとするなら人が人の死を数え続ける限り、人の死はこれからも人々の心の中でどんどんと軽くなっていく。なぜなら、数で数えられる限り死者に名前はないのだから・・・。



                          2007.9.8    佐々木利夫


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遠い命と魂と