秋風が一段と身に染む季節になって、歩きながら通う道々にも二重連になったつがいのトンポが飛び交う姿が見られるようになった。昨日の雨の水溜りにセッセセッセと二組も三組ものトンポが尻尾を触れさせながら産卵している。

 ふと見るとあちこちの水溜りに同じような風景が見られる。ところがこの水溜りはアスファルトの上にできたたまさかの現象であって池でも川でもない。
 こうした風景はこれまでに何度も見てきた。学校のグランドに、庭先の木陰に、アスファルトで敷き詰められた駐車場に・・・、トンボはひたすら卵を産み続けている。

 私はこうした姿をこれまで悲しくて哀れな無駄な行為だと考えてきた。恐らく明日の朝までには干からびて消えてしまう水溜りである。そんな場所へ卵を産んだところで、その結果の悲惨さは余りにもはっきりとしている。無駄を通り越して絶望を絵に描いたような行動ですらある。

 羽があるんだからほんの少し飛翔を続けるならば、少なくなってはいるけれど側溝のようになった小川もあるだろうし、池も川もあるはずである。選りによってアスファルトに卵を産むことはあるまい。
 無駄な努力を徒労というけれど、このトンボの行為は徒労を超えて余りにも見え透いた無謀である。報われる可能性がゼロの努力には評価すること自体が難しい・・・、そんな思いで私はこれまでトンボの姿をずーっと見ていたような気がする。

 だが、今日このトンボの姿を見て、種として生き残るとはこうしたことなのかも知れないとふと思ったのである。水のあるところへ必ず卵を産むという行為が、種としてのトンボに課せられた生き延びることへの大きな指令なのではないかと思ったのである。

 産み付けられた卵は少なくともアスファルトの上では間違いなく死滅してしまうことだろう。だが庭の隅の水溜りやグランドの片隅の土の上にできた水溜りなら、もしかしたら僅かにしろ生き残る可能性がゼロではないだろうと感じたのである。

 私にはトンボの卵の生き残る術を知らないけれど、乾燥した地中にあっても殻に閉じこもったまま数年を生き延びる生物の卵もあると聞いたことがある。もしかしたらもう明日にでも大雨が降って流された卵は近くの排水溝のマンホールを通り抜けて池や川へとたどり着くかも知れない。
 そうした可能性の全部に挑戦するのが「種としての命」に課せられた成し遂げなければならい義務なのかも知れないと思えたのである。

 人は余りにも結果を安易に予想して答を出しがちである。「石の上にも三年」などと古めかしい言葉を持ち出して説得しようとは思わないけれど、その安易さは私にもあると思ったのである。

 私がこうしたトンボの産卵行動を無謀と断じた背景には、私の現在の生活に対する検証なしの思い込みがある。私は現在のアスファルト道路に代表される文化とも言うべき社会背景を余りにも絶対視しすぎているのではないかと思ったのである。つまりは私にとってアスファルト道路は過去から未来へと永劫に続く既存の事実だと思いこんでいる単なる錯覚によるものではないかとふと気づいたのである。

 少し振り返ってみるなら、アスファルト道路なんぞ私の子供の頃には存在しなかったことが分かる。もちろん世界的にどうだったかなんてことは知らない。イギリスの産業革命はずっとずっと早かったんだし、諸外国の都会はもとより東京などだって舗装道路は私の生まれる以前から当たり前になっていたかも知れない。

 だが、私の生まれた夕張の昭和10年代は、ぬかるみに長靴の通学であり、馬車の轍を歩くのが当たり前の時代だった。轍と轍の間は当然に盛り上がっていて、そこを「馬の背」などと呼んでいたことすら覚えている。もちろん高層ビルなど見たことすらなかった。舗装道路は私の知る限りここ数十年の出来事であり、仮にそれを世界に延長したところでせいぜいが更に数十年をプラスする程度にしか過ぎないだろう。

 舗装道路にまつわる事実関係は、そのままビルディングや鉄筋コンクリートや自動車、飛行機に通じることであり、少なくとも私の生まれてから若しくはせいぜいがその数世代前程度の出来事である。
 そして人はこうした僅かな時間の間に、環境破壊、地球汚染といわれるまでのことをやり遂げた。

 私の考えついた「アスファルトの卵だって夜半の大雨で川へと流され、生き残れるかも知れない」との考えだって、結局は現代文明のシステムが未来永劫に続くであろうことを前提にしているからである。
 そんな保証がどこにもないことは、いま目に見えている環境の変化にだってはっきりと見ることができる。

 ことは種の保存である。自分の子孫を残すというそんな限定されたレベルでの話ではない。人類の歴史とはどこから始まったと言えるのだろうか。ピラミッドだって縄文文化だって、種として人類を考えるなら束の間の出来ことでしかない。

 生命は多くの試練を生き残ってきた。苛酷な氷河期、巨大隕石の衝突、地球爆発とも言えるような火山の噴火・・・。そうした天変地異のハザマに絶滅した種も多かったと思うけれど、それでも命は続いてきた。種にとってはアスファルトの水溜りへの産卵などお茶の子さいさいである。地球破滅にだって対応できるほどの生き残りの手段を、生物としての種は続けてきたのだから。

 それは100年や200年の単位ではない。数万年、数百万年、数千万年を賭した種としての生き残りである。そうした中に人類の存在などもしかしたら超えているのかも知れない。生物の種としての人類は存在するとしても、それは文字や言語や芸術などの文化とか文明などに喜んで、自らを霊長類などと呼んで奢っている人類ではない。

 人類がなしてきた地球破壊を超えてもなお、生物は地球が存続する限り生き延びていかなければならない。そのための産卵である。人類の作り上げたアスファルト舗装などあと数百年、数千年でなくなるかも知れないではないか。ここで産卵行動の軌道修正をしてしまったら、これまで数億年も続けてきた種への執着を放棄することになるではないか。

 アスファルト道路の水溜りへの産卵などに無駄や無謀を考慮する必要はない。有毒な水溜りにだって、いやいや必要なら溶岩だまりのような灼熱の池にだって卵を産みつけてきた種の歴史である。人間の作り上げた環境の破壊だって、つまるところ一過性である。人類が絶滅すればアスファルト舗装もまた土くれに戻るだろうし、灼熱の地球温暖化だって氷河期の繰り返しも含めて地球の歴史の中でそれほどの脅威ではない。

 トンボは人類との共存など考えることもなく、ひたすらにアスファルト舗装の水溜りに産卵する。それはアスファルト舗装を狙ってのことではない。仲間はいたるところの水溜りのすべてに産卵を続けているだろう。そしてそれは未来永劫続けていくべく伝えられてきた種の宿命であり、そのことに人類なんてどうでもいいのである。人類が石油を燃やし続けようが、はたまたフロンガスの規制に励もうが、トンボには無関係なのである。
 それが「生き延びる」ということなのだと、トンボは悠々と秋風に吹かれながら、身近に迫ってきている冬の気配に動じることもなくひたむきに産卵を続けている。
 そして私は私の中にある、合理的だとか論理的だとか更には効率的などといった無駄や無謀を排斥しようとした思考過程に少し考え直す必要があるのではないかと、ほんの少しなのだけれど秋風の青空を眺めて振り向いてみたのである。



                              2007.9.25    佐々木利夫


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産卵するトンボ