「グランド・ゼロでは今日も再開発の槌音が響いている」との記事を読んだ(朝日新聞、10.8)。この「開発の槌音」という表現を見て、こうした使い方が今でも残っているんだと懐かしい気持ちを抱いたのと同時に、昔ながらの平屋の木造建築じゃあるましい、ニューヨークの摩天楼で数百mにもなろうとする高層のビル建築に「槌音」はないだろうと思ってしまった。

 槌には大きく金槌と木槌がある(最近は硬質ゴム製のもあるようだが)。金槌は釘を打つ道具で今ではどの家庭にもある大工道具である。一方木槌は形状としては金槌と似たようなものだが、大は地面に杭を打ち込むためのものから、木造建築の梁や柱などのはめ込みに使うためのものまで大小様々である。

 戦争や大火や地震などによる被災では避難場所の確保が先決だろうが、復興でまず始まるのが住いの確保つまり我が家の建築である。それがバラックにしろ物置のような小屋にしろ、かつての日本の家屋は木と紙でできていたから柱や梁をつなぐのは釘であり、木槌で叩いてはめ込むなどして作り上げたものだ。トタン屋根も柾屋根も釘打ちが主流だったからその音も金槌の音であった。

 つまり金槌や木槌の音が聞こえてくるという環境は、そうした音の発生源に住宅が建築されているという状況を間接的に知らせてくれるものであった。NHKラジオの昔ながらの番組に「音の風景」というのがある。日本中の様々を音とアナウンスだけで綴ったドキュメントだが、「槌音」とはまさに音だけで伝わってくる復興そのもののイメージだったのである。

 だが今や木造の建物を私たちの回りに見ることは極めて少なくなった。歴史を今に残す旧家だとか遺産、保存が条例などで義務付けられている街並みなどを除いて、釘すらもが現在の建物からは消えていっているような気がする。
 そしてそれに伴って建築は鉄筋コンクリートや大量生産され規格化されたパネルなどをつなぎ合わせるスタイルへと変貌していった。名前としてはまだ残っているのかも知れないけれど、大工だとか棟梁という役割自体が建築士や設計士やコンクリートミキサー車、ダンプカーなどに取って代わられた。
 だから今や釘を打つ金槌の音や柱や杭を打ち込む木槌の音などは、どこからも聞こえてくることはなくなったのである。

 そしてグランド・ゼロでのビル建設の話題である。グランド・ゼロとはもともと強大な爆心地を意味する言葉だから、2001.9.11のテロで爆破されたニューヨーク世界貿易センタービルの跡地だけを示す言葉ではない。例えば原爆の投下された広島、長崎の爆心地もグランド・ゼロである。しかも広島、長崎の原爆による死者は20万人とも言われているから、ニューヨークでの死者2749名とは比較にならない規模であると言えよう。そうした意味では、ニューヨークのあのツインビルに飛行機が突っ込む映像ばかりがグランド・ゼロを象徴しているかのような報道にはいささかの抵抗がある。

 まあ、そんなことにいちいち目ぐじら立てることもないだろうが、その倒壊したツインビルの高さが411mだったのに対し現在建築中とされるフリーダムタワー(「自由の塔」とでも訳すのだろうか)は、なんと541mもの規模で世界一になるのだと言われている。

 時折報道される映像でしかその建築状況を知る術はないのだが、そんなに詳しく見なくたってそのフリーダムタワーの建築現場に「槌音」など聞こえることのないことくらいはすぐに分かる。ダンプカーが走り回り、鉄骨を接続する溶接やリベット打ちの音は絶えないだろうが、釘を打つ音など決してしないはずである。

 にもかかわらずこの記事を書いた者は「・・・再開発の槌音が響いている」と表現した。本当に槌音が聞こえたのではなく、単に復興のための建設工事が今まさに進んでいることを表現したかったのだということくらい分からないではない。つまり建物の建設が復興に向けて元気に進んでいるさまを、慣用句を使うことで示したかったのだということくらい私にだって分かる。

 それでもいかに慣用句とは言っても、使われ方にはそれなりのルールがあるのではないかと思ったのである。個人住宅やせいぜいが小さなアパートが近隣に数棟まとまって建築中ならば「槌音」の表現にそんなに気になることもないとは思うけれど、ことは世界一のビルであり高層と表現することすら通り越してしまうような鉄とコンクリートの巨大な塊である。そんな建物に「槌音」はまるでそぐわないのではないかと気になってしまったのである。

 もちろん「槌音」の語だけにこだわるわけではないが、慣用句には説明抜きで状況を説明しやすいという利点のあることはよく分かる。だがそうした「説明抜き」で説明できてしまうことがやっぱり危険な使い方であって、そうした安易な分だけなんとなくアイデア盗用というか、手抜きみたいなスタイルが見え透いてしまい、どうもプロが使う言葉としてはふさわしくないのではないかと思うのである。

 そうは言いながらもこの記事は別の刺激も与えてくれた。「槌音」という言葉から、太宰治の「トカトントン」を思い出したのである。書棚の中から久し振りに太宰治全集(筑摩書房、昭和33年)を引っ張り出してみた。第8巻にこの小説が載っていた。数十ページの短編だったこともあって一息に読み終えた。

 終戦を告げるラジオの詔勅を聞き自決を決意した兵隊の耳に、金槌で釘を打つ音「トカトントン」が聞こえてきて自決の決意が急に萎えて白々しい気持ちに変ってしまう。故郷へ帰ったその男は、どんなに感激し、奮い立とうとしても、どこからとも無く、幽かにトカトントンと聞こえてきて、気力が失せてしまう。どんな興奮も半狂乱みたいな獅子奮迅もたまらない恋も、政治運動も社会運動も選挙も、何もかもが投げやりになってしまうのである。

 そうした喪失感に襲われた若者の姿を、太宰治は突き放すように描いている。そう言えば、最近のフリーターだのニートだのと呼ばれている若者を見ていると、その意欲の無さみたいなものの背景に「トカトントン」と同じような暗示があるのではないかと、ほんの少し思ってしまった。

 それもこれも新聞記事に載っていた「開発の槌音」のおかげである。もしかしたら読み返す機会などなかったかも知れない「トカトントン」を思い出させてくれたのだから、感謝こそすれ慣用句なんぞといちゃもんをつけるのは筋違いかも知れない。
 だから、それに免じてまあ・・・、良しとするか・・・。



                          2007.10.11    佐々木利夫


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開発の槌音