青函トンネルが開通して営業を開始したのは1988年3月のことだからもう20年近くも前のことであり、その事実は既に歴史になったと言ってもいいほど昔のことである。北海道と本州とはこれにより少なくとも鉄路に関しては陸続きになった。

 それまで北海道に住んでいる人々は本州のことを「内地」と呼んでいた。単に津軽海峡を隔てた陸続きでない土地という意味だけでなく、北海道生まれの我々ですら無意識にそう呼んでいた。
 内地の対語は「外地」だろうから恐らく北海道が蝦夷と呼ばれ未開の野蛮な地域としてのイメージが昔からあり、そうした異邦の地へ半ば強制的に移住させられて開拓に携わざるを得なかった人々が望郷の思いを込めて遠い故郷を内地と呼んだことがその背景にあるのかも知れない。

 その内地が海底トンネルと鉄道で北海道と陸続きになった。車道や歩道などのあるいわゆる道路ではないから、車で通ったり歩いて通り抜けたりすることはできないけれど、鉄道としての開通なのだから札幌発上野行きの列車が走ったところで何の不思議もない。現に私自身も何度となくこの海底鉄道を利用したことがある。

 それはそうなんだが、札幌に住んでいて「上野行き」と書かれた電車を見ることは、何だか少し現実離れしているような、そんな錯覚が脳裏をかすめる。

 私が現在、毎日の事務所通いをJRの線路に沿って歩くことが多いことはこれまでにも何度かこのエッセイで書いた。そして特に用事がなければ午後6時前後に事務所を出て自宅へと歩き始める。
 コースは帰り道での買い物、古書店覗きなど、その日によって多少変更するけれど、一番多いのは自宅までの約半分の距離にあるJR発寒中央駅を経由してそこから線路沿いに歩くケースである。

 そうした帰り道で、時折正面からの気になる空の列車とすれ違うことがある。我が家は札幌駅から小樽方面に向かった4つ目の駅のすぐ近くにあり、更にその2つ先が手稲駅である。手稲駅は小樽市と接する札幌市のほぼ北のはずれにあり、通勤などの利用客も多いけれどJRの車両基地にもなっている。

 待機、準備、清掃などなど、車両基地としての役割はこの駅のいわゆる機関区に長く勤務していた人から基地にまつわる様々な話を聞いたことがある。こんな小さな場所にも我々の知らないたくさんのドラマがあるのだと改めて知らされたものだった。

 札幌発19時27分上野行き特急北斗星4号は食堂車、ロビーカーのついた寝台列車である。手稲駅から少し離れた機関区内で準備を済ませたであろう車両は、19時少し前に薄暮の中を始発駅である札幌駅へと向かう。上野駅到着は翌日の午前11時19分の予定である。その列車と私はすれ違うことがあるのである。

 札幌発上野行き、その事実になんの不思議もないのだが、長く青函連絡船を利用した東京行きに馴れた私にとっては、上野行きそのものがまるで銀河鉄道でもあるかのように実感との間に乖離を感じてしまうのである。

 これまで何度鉄路と連絡船とで東京へと向かったことだろうか。東京と北海道の往復は、本州への観光旅行でも利用する機会は多かったけれど、なんといっても東京での一年にも及ぶ長期研修が二度あったこと、そのほかに多くの会議や研修会があったことなどがそうした機会を増やしたと言ってもいいだろう。

 長期研修は今から30年以上も前の東京往復である。千歳〜羽田の飛行機は当時でも当然運行していたけれど、現在の運賃と違って航空運賃はサラリーマンにとってはまさに雲の上の金額であり、緊急な場合はともかくとして通常の移動手段としては始めから利用対象にはなっていなかった。

 函館まで行き、列車のホームから船へと乗り換える。なぜかみんな急ぎ足になるのである。そんなに満員の気配はないのだが、それでも列車から船へ、船から列車へ人はホームを急ぎ足になるのである。中には走る者も多かった。連絡船にも指定席はあるけれど、貧乏研修生としてはそこを陣取る余裕はない。畳敷きの大広間へ直行し備え付けの枕を手にごろりと寝転んで我が空間の確保である。混雑してくれば、そんなごろ寝の余裕などなくなって自然にあぐら座りくらいの隙間しかなくなるのだが、それでも客は走ったものだ。そして私もその一員であった。

 青森到着まで連絡船の所要時間は約4時間、下船してから上野行きに乗り継がなければならないのだから酒を飲むにしても眠るにしても中途半端な時間ではある。それでも夕方札幌を発ち真夜中に乗船してまだ暗い空を上野行きの列車に乗り換える時間帯を良く利用したような気がする。それは翌日の昼頃に上野に着くのが、研修での寮生活に便利だったからなのであろう。

 だから東京へ行くというのは、函館行きの国鉄、そして青函連絡船、更に上野行きの国鉄という三種類の交通機関を利用するということと同じであり、かつ、それ以外の選択肢などなかったのである。

 石川啄木は「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」(一握の砂、煙二所収)と書いた。この停車場は上野駅のことである。東北・北海道の者にとって上野駅は単なる山手線の中の一駅や東京の入り口なのではない。もっともっと根源的なイメージ、田舎と都会と言ってしまえばそれまでかも知れないけれど、日本文化の中心に対する憧れを含めた夢のような雰囲気を持たせるそんな駅なのである。

 今でこそ東京はなんの変哲もない単なる巨大都市でしかない。飛行機で2時間足らずのあっと言う間の羽田である。それでも、連絡船を乗り継いで通った東京上野を知る者にとって、札幌で見る列車の行き先表示の「上野」には、どうしても特別な思いを抱いてしまうのである。

 冬になると、この寝台特急北斗星とすれ違う時間帯には回りはすっかり暗くなっている。明々と車内を照らしながら通り過ぎる無人の列車の長い列は、単なる上野行き電車のイメージを超えて、遠い懐かしさやあこがれ、若い頃の夢のカケラなどを乗せた私だけの銀河鉄道でもあるのである。



                          2007.6.27    佐々木利夫


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