歌枕とは昔の和歌の題材になっている諸国の名所のことである。古来、万葉集や古今和歌集などたくさんの歌に詠まれた名所を意味するから日本中いたるところに存在している。
数年前フェリーで名古屋へ渡ったとき、仙台港(港は多賀城市にある)へ寄港して数時間の停泊時間があった。そのとき船のパンフレットで港からそれほど遠くない場所に百人一首に詠われている名所(つまり歌枕)があることを知った。
しかもその歌枕は百人一首でもなじみの多い「末の松山」と「沖の石」の二箇所だというではないか。ただそのことを知ったのは停泊してしばらく経ってからであり、そんなに遠くないとは言っても始めての土地であるし、方向感覚も必ずしもしっかりしているわけではないから、万が一出港にでも遅れたら大変である。
帰りもこのフェリーを利用することにしており、同じようにこの地に数時間停泊することになっている。ならば実際に訪れるのはそのときにすることにして、行きは途中までの土地勘をつかむ程度にしておくことにした。
さてこの歌枕に詠まれた百人一首は次の句である。
契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは
二人はかたく約束をしましたね。おたがいに、幾度も涙に袖をしぼりながら、「あの末の松山を決して浪が越すことのないように、どんなことがあっても、二人の仲は、末永く変わるまい」とはね(鈴木知太郎訳)。
わが袖は潮干(しほひ)に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾くまもなし
泣きぬれた私の袖は、海の中に沈んでいて、潮干の時にも沖の石が人に見えないように、人はさらさら知らぬことです。でも、涙のために、乾く間とてもございません(同人訳)。
帰り道の前日の正午、フェリーは仙台港で約3時間の余裕ができた。片道一時間で船に戻れるのなら百人一首の世界に遊ぶことができる。フェリーだからマイカーが積んであるけれど目的地は北海道苫小牧港なので途中下船と言うわけにはいかない。下船準備が整うとすぐに目的地へと歩いていくことにする。
目指すは港から約4キロほどのJR仙石線多賀城駅方向である。地図によれば駅の少し手前にこの歌枕の地はあるはずである。さすが著名な歌枕、間もなく駅が近いと思われる場所に標識がある。このぶんだと迷わずに到着できそうである。
小さな寺のそばの小高い丘に松の木が2本ほど茂っている。これが末の松山らしい。そしてそこから200メートルほど南に下がっていくと民家の間に小さな池に囲まれた小島がある。ここが沖の石だと案内板が知らせてくれている。
歌枕の意味からするなら、末の松山はこの丘の頂を浪が越していくことはないだろうであり、波が引いてもまだ海に隠れている石が沖の石である。そうだとするなら、当時この地からは少なくとも海を見ることができたということであろう。
さりながら一番近い海岸はフェリーの停泊している仙台港の約4キロである。港は埋め立てられて作られたのであろうか港までは遠く、しかも高い建物も数多くあって海岸を見ることなどできない。小高い末の松山からも、海の底だったであろう沖の石の地からも今となっては海を感じることすらできはしない。
この歌の作者は「末の松山」が清原元輔(きよはらもとすけ・清少納言の父、生年951年)、「沖の石」は二条院讃岐(にじょういんのさぬき・女性、生年1141年頃)とされている。だとすれば歌の作られたのは今から1000年近くも前の平安時代後期から鎌倉時代初期にかけてである。この当時既に歌枕として知られていたのだから、この近くからは海の迫る素晴らしい景色が眺められたのであろう。
歌枕とはその伝承のルートが歌によるものであるにしろ日本中に知れ渡った観光地の意味でもある。末の松山に立って周りをゆつくりと眺める。写真も絵画の普及もない平安時代に全国に知られた名勝地は、今ではその面影すら留めてはいない。
海の香りがするわけではないけれど、丘に立って軽く深呼吸をしてみる。少し風があるけれど、今日は穏やかで静かな空である。
2007.5.8 佐々木利夫
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