テレビのワイドショーでのアナウンサーの発言である。ワイドショーなんだし、日頃からそうした番組は単なる興味本位で作られているのだから、放送される内容に一々目くじら立てることはないと思っている。だから気にする方がおかしいかも知れないのだが・・・。

 気になったのは来年一月に改訂版が出版されることになった国語辞書「広辞苑」に関する話題だった。今度の改定で新しい語が追加されることになったらしいのだが、その追加される言葉の中に「うざい」という語があるようなのである。

 この「うざい」が載ることになったことに対するキャスターの意見がどうも気になった。キャスターの言い分はこうである。「この言葉はいじめの用語なのだから、そうしたいじめに関わる言葉を広辞苑に載せることはどうなのでしょうか。どうか皆様のご意見をお寄せください」。

 どうも暗に「差別語なのだから載せるべきでない」との言い分が見え見えのような気がしてならない。しかもそうした自分の意見を視聴者に問いかけるという形をとることによって、その意見を大衆の意見にすりかえようとする意図さえ匂ってくるような気がしてならないと感じたのである。

 「うざい」が差別語なのかどうか、更には「いじめ用語」にあたるのかどうか私に必ずしもきちんと理解できているわけではない。
 ネットで調べたところによると、「うざい」の語源は「うざったい(ごちゃごちゃして煩わしい)」から来ているようだが、それが若者を中心に「うっとおしい」、「煩わしい」、「うるさい」、「面倒くさい」などの意味から更に「気持ち悪い」、「邪魔」と言った他者を排斥するような使われ方へと変化していっているらしいことが窺われる。

 極端な使い方になると「問答無用」で相手との会話をばっさり切り捨てるような場面にも使われるようになってきて、それがいじめ用語、差別用語だと言われる原因になっているのかもしれない。

 だがそうした使い方、使われ方とその言葉を広辞苑へ載せるかどうかとはまるで無関係だと私は思うのである。言葉が人を傷つける場合のあることは十分に承知している。だから意識するにしろ、無意識にしろ、日常会話も含めて人は発する言葉にはそこのところをきちんと理解していなければならないだろう。

 ある特別な状態を示す言葉を「差別語」と呼んでマスメディアでは使わないようにする例がある。そうした申し合わせが理解できないではない。言葉そのものには蔑視や卑下の意識が含まれていないにもかかわらず、使い方を意識的に捻じ曲げてしまうことで相手を傷つけようとする人がいないではないからである。

 差別語は始めから差別語として生成してくるものではないだろう。使い方、使われ方の変遷が結果的に対象に対する偏見を故意に惹起してしまうのだと言えるかも知れない。

 だがここで気になるのはそうした言葉の性質を広辞苑へ掲載するかどうかの問題にしてしまうことである。ある言葉を辞書へ載せるかどうかは、その言葉が差別語であるかどうかとはまるで別次元の問題だと思うのである。むしろその言葉がどんな使われ方をしているにしろ社会にある程度の広さで定着し、これからも継続して使われていく可能性があるかどうかで判断していくものではないかと、それが判断基準になるのではないかと思うのである。

 つまり、その言葉が客観的にある程度の範囲で社会に承認されているかどうかが判断基準になるのではないのだろうか。そして「社会的に承認されている」とはその言葉の中に善意であるとか正義を含んでいることに関係させてはいけないのだと思うのである。

 辞書への掲載は言葉の持つ意味ではなく社会への浸透度という中立の立場で判断すべきだと思うのである。好悪であるとか善悪などの判断をすることなく、どの範囲の人々にまで使われている言葉なのかを指標とすべきものだと思うのである。

 「焚書」という言葉がある。為政者にとって不利益な内容の書物は焼き捨ててしまおうとする行為である。それによってそうした国の維持にとって不利益もしくは国民に浸透させてはいけないと信じる思想はないことになると信じての行為である。私はこの「うざい」の広辞苑掲載問題に反応したアナウンサーの意見に、こうした焚書と同じような考えを感じてしまうのである。

 差別は差別語によって生じるのではない。だから差別語を隠すことによって差別がなくなる思うのは錯覚でしかない。差別は言葉の有無に関わらずいたるところに存在する。
 「メクラ」を「目の見えない方」、「視覚障害者」と言い換えたところで、見えない目が見えるようになるわけでも、世の中全部が見えない弱者にとたんに優しく変化するわけでもない。

 「視覚障害者」などともっともらしい名称を付したとしても、その言葉を蔑視や卑下の手段として使い出せば瞬く間に言葉は薄汚れていってしまうことだろう。
 むしろどんな言葉も差別の手段として使わないことを人々に浸透してさせていく社会の実現こそが現代に生きる者にとっての使命だと思い、それを広めていくのもマスコミの仕事なのではないかと思うのである。

 マスコミはいつも「言論の自由」、「表現の自由」という言葉をあたかも犯すべからざる神託として金科玉条にしつつ、その錦の御旗に隠れて己の保身を図ろうとしている。そのマスコミが言葉を操作しようとするような発言をしたことに、私はどこか病んでいるマスコミ自身の抜きがたい兆候を見たような気がしたのである。



                          2007.11.22    佐々木利夫


            トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



うざい