「そんなこと言ったって、現実に銃を持って攻めてきたらどうするんだ」と問われたとき、自力で対処するにしろ警察であるとか自衛隊などを頼るにしろ、こちらもなんらかの武力で対抗する手段を選ぼうとすることは一見非常に分かり易い論理である。

 私たちが自分の家に戸締りをしたり鍵をかけたりと様々な防犯対策をとることや、警察官がパトロールすること、場合によっては自衛隊機がレーダーで把握した不審機に緊急発進(スクランブル)をかけたり海上保安庁が不審船を追跡することなどはまさにそうした考えの延長にあるからである。

 だから私はそのこと自体を否定したいというのではない。世界中でテロとも内乱とも戦争とも、どう呼んでいいか区別がつかないけれど、様々な形で暴力がはびこっている。そうした暴力にたとえば日本が批判的な意思を表明するだけで、当事者の中にはそうした暴力の標的を日本にも向けるなどと宣言する場合もあるなど、他国の紛争といえども日本とは無縁ではなくなってきている。
 現に北朝鮮は昨年暮れに原爆の実験を実施したし、現在も新たな実験のための計画が進行中であると伝えられている。

 日本の領土という国にとっての基本的な基礎にしたところで北方領土から始まって魚釣島だの尖閣諸島などなど、国境を巡る国交上の問題は今に至るもぶすぶすとくすぶり続けている。

 地球的規模で安全神話が崩れてきていると言われれば、そのことにきちんと反論するだけの根拠を私は持っていない。むしろ、そうした危機が迫っているとの意見の尻馬に乗って「大変だ、大変だ」と騒ぐことのほうが、伝聞にしろ状況を説明しやすいぶんだけ説得力があるかも知れない。

 世の中のそうした動きを逐一理解しているわけではないから、これから書くことは単なる思い付きの域を出ていないことは自分でも分かっているつもりである。
 しかも私はこうした思いつきの理論展開が大嫌いである。税務署と言う職場に定年までの長い間勤め、租税法律主義という枠内で法律を守るという仕事をしてきたこと、そしてその延長で税理士をやっているせいなのかも知れないけれど、「事実の認定は証拠による」という刑事訴訟法(317条)の規定は刑事事件における裁判規範であるのみならず、我々が仕事を行う上でも私生活などの面でも物事を判断する上での大事な前提だと思っているからである。

 日本が国連平和維持活動(PKO)協力法を成立させたのは15年も前になる。6年程前にはテロ対策特措法が成立し、その2年後にはイラク特措法が成立した。有事関連法制であんなにも騒いだのはほんの少し前だったと思っているのだが、今ではそれが話題になることすらなくなった。

 昨年暮れに成立した教育基本法の改正では「愛国心」が条文の中に盛り込まれ、北朝鮮の核実験に呼応して麻生外務大臣は「隣国が(核を)持つとなった時に、一つの考え方としていろいろな議論をしておくのは大事だ」と暗に日本の核保有を議論の俎上に載せてもいいのではないかとの発言をした。しかもそれに続いて自民党の一部に「敵基地攻撃論」も飛び出す始末である。

 年が明け、つい先日1月9日に防衛庁が防衛省になった。安倍首相は「防衛省法の成立は・・・我国の民主主義国家としての成熟・・・」と記念式典で祝辞を述べた。
 もちろん防衛庁長官から横滑りした久間章生防衛大臣も「これは国民の信頼に基づくものだ」と述べた。

 それはそうだ。国民の意思は国権の最高機関であり唯一の立法機関である国会で審議され、そして法律として実現する。そのことはまごうかたなき法治国家である日本が進むべき道を定める基本的なルールなのだから。
 そして安倍内閣の大きな目的の一つに憲法改正があり、そのための国民投票法案の審議が進められようとしている。これには投票年齢であるとか憲法改正のみに限定するか国民投票全体を視野に入れたシステムにすべきかなどで意見の違いはあるものの民主党も憲法改正そのものには賛成しているという。

 これらはすべて法律に基づいて成立した、または成立させようとするものである。国会は国民意思の集約される場である。国会の意思はたとえ個々人としての国民の思惑とは異なっている場合があるとしても、トータルとしての国民の意思である。
 それはそれで理解しているつもりである。だがそれでもやっぱり最近の日本の動きはどこか間違った方向へ向かおうとしているのではないかと気になって仕方がない。

 テレビや映画じゃないんだし、私自身、国際的に影響力を持つような実力を有しているわけでも、そうした立場にいるわけでもない。だから、「今ここにある危機」みたいなことが現実の問題として私自身の目の前で起きることは恐らくないだろう。
 つまりはこの事務所と自宅を結ぶ線上において、イラクのように自爆テロが発生したり、爆弾が飛んできて事務所や自宅が破壊されることなどは、少なくとも私の生きている間には起きないだろう。

 だから「そんな無責任なことが言えるんだ」と開き直られてしまえばそれまでのことなんだけれど、ここ数年なんとなく日本の進んでいく方向が戦力強化と言うか、憲法9条が武力と戦争の放棄を宣言したのとは別の道へと進んでいっているような気がしてならないのである。

 「あんたの家に火をつけようと、不審な人物が周りをうろうろしている。それでもあんたはそれを黙って見ているだけなのか・・・」、そんな理論で我々は日本の防衛を考えてきた。

 その結果を単に国会の責任として押しつけるべきではないだろう。現にそうした国民の意識の変化は最近のNHKの世論調査でサンプル調査にしろ憲法改正に対して「必要 42%」、「必要なし 23%」となったことからもある程度読み取れるような気がする。

 国会は国権の最高機関であり(憲法41条)、その国会が誤った方向に向かっているとしたならば、それは政治が悪いのではなく、そうした政治家を選んだ国民の責任であることに異論はない。
 だからこそ、こんな風に事実認定を中途半端にしたままでも、そして感覚だけの議論だと認識しつつも、国民それぞれが日本の将来について、今まさに考えるべき時期に来ているのではないかと思ってしまうのである。

 「戦争を正当化できる場合がたった一つだけある。それは祖国が侵略され、自分の妻や子を守るために戦わねばならない時だ」(ジョン・ポール、「原子力潜水艦、北へ」P87)は、分かりやすく私の好きな言葉ではある。

 しかしながら、防衛大臣はこの防衛省の成立に当たり、「やがて陸軍、海軍、航空についても省として独立させる必要がある」と話したと伝えられている。

 憲法改正にしても専守防衛の基礎は変らないと政治家も政府も識者も語る。だが、見えないようにして日本の防衛は少しずつ位置を変えてきているような気がしてならない。単に政府の解釈だけでなく、現実の法律としての位置づけが、国民に隠されているというのではなく、むしろ国民の選択と言う形をとりながらじりじりと移動していっているのではないだろうかと気になって仕方がないのである。

 単純に今の憲法を考えてみよう。多少学んだことはあるけれど、学者じゃないのだからそんなに理論的に詳しくは理解できているわけではない。だが9条が戦争の永久放棄、武力の不保持を規定していることくらいはほとんどの人が知っていることだろう。

 現在の憲法が世界の時流の中で必ずしも現実にそぐわなくなってきていることを理解できないではない。だから改正だ・・・とする意見も理屈として分からないではない。

 だがざっとでいいから、憲法の前文を読んでみてほしい。日本国憲法と外国の憲法とを対比して勉強したことなどないので現行憲法がどれほど世界の現実と乖離しているのかを具体的に示すことはできないのだが、一見して日本の憲法は無責任な表現であることを十分承知で言うのだが、「歯の浮くような美文と理想論」で書かれていることが分かる。前文の描くような世界など、はなから実現不可能だと思われるほどの理想主義一色、もっと極端に言うなら空想論に彩られている。

 でも、だからといって現実に即応できるように改正すべきだというのは、どこかに論理の飛躍があるのではないだろうか。
 ことは憲法である。法治国家としての憲法は国民の規範として最高の位置に存在するものである。ならば理想論でいいじゃないか、到達できないような高邁な理想論だって、それに向かっていこうと日本国民が悲願するなら、それでこその憲法ではないのかと私は思う。天上の憲法を地上の現実に引き降ろしてしまったら、それはもう憲法と呼べないのではないだろうか。

 「東京にミサイルが降ってくるぞ」、「原子力発電所にテロが攻め込むぞ」。それを無批判に信じることでいいのだろうか。日本の方向は本当にそんなことで決めてしまっていいのだろうか。本当に武力をなくしたら日本は攻撃や侵略などによって消滅してしまうのだろうか。そのことを改めて真剣に、本当に真剣に考えてみる必要があるのではないのだろうか。

 5月3日の憲法記念日までに「国民投票法」を国会で通すと自民党は宣言した。4月には統一地方選挙が、そして7月には参議院選挙が行われる。迂遠な方法かも知れないけれど、国民は選挙を通してしか自分の意思を示すことができないのである。一票では何にも変らないのは事実である。だがしかし、一票で日本を変えることができることもまた同時に事実なのである。



                          2007.1.13    佐々木利夫


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