今やっているNHK朝の連続ドラマ「芋たこなんきん」での話しである。半年続くこの物語は、作家田辺聖子の半生を描いたもののようであるが、今週(1月22日〜27日)は概要こんな話である。

 主人公が知人の寺の坊主から海外旅行で買ってきたと称する木造の小さな千手観音の仏像を借りる。ところが誤って腕の一本を折ってしまう。ドラマはこの事実に気づかず、内緒で仏像に触れてしまった彼女の夫、義理の妹と子どもがそれぞれ自分が折ってしまったと錯覚することで進んでいく。

 物語はそれぞれが仏像を壊したのは自分の仕業だと思い込み、それを隠そうとする食い違いの滑稽譚である。登場するのは主人公も含めて善意と正義丸出しの陽気で人の好い人物ばかりである。
 その4人が4人とも、自分のせいだと信ずる仏像の破損を、内心はともかく破損している事実も含めて他の者に知られないように嘘をつき隠すのである。知らんぷりを通すのである。

 そうしたそれぞれの人物の後ろめたさのぶつかり合いというか食い違いの作為的な面白さをどうのこうと言いたいのではない。ただ、この善意と正義の塊とも言える全員が自分が壊したという事実を隠したまま嘘を突き通していることに、何となく納得しホッとしたのである。

 今年は元旦から暗いニュースで始まった。兄が妹を、妻が夫を殺して、しかもその死体をばらばらにしてしまう事件が続けざまに起きた。マスコミは得たりや応とばかりに朝から晩までこの事件を取り上げ、猟奇事件として人にあるまじき恐るべき行為であり許せない証拠隠滅だ騒ぎまくった。

 殺人事件なのだから、加害者のこうした行為を是認しようとは思わないけれど、私はマスコミががなりたてるほどそんなに異常な行動だとは思えなかったのである。
 人を殺したのだから、そのことを間髪を置かずに警察に知らせて犯行の素直な自供を犯人に求めるのは、当事者でない我々としては当然の思いかも知れない。

 だが犯人にして見れば、まず第一に犯行を隠そうと思うのが自然なのではないだろうか。犯罪の是非やその軽重を問うているのではない。
 交通事故だろうが万引きだろうが、犯罪そのものを隠そうとしたり自分の犯行であることを隠そうとしたりするのは、犯罪を犯した者の本能とも言える当然の行為なのではないかと思うのである。そうするのが犯罪を犯した者の人間としての自然な行動ではないかと思うのである。

 犯罪とは言ってもその動機や手段や結果などによって、隠し方にも守るべきルールがあるはずだと人は言うかも知れないが、隠すのなら徹底的に隠そうとするのもまた隠す側としての当然の行動ではないのか。

 もちろん隠すことをせずに出頭したり、いったん逃げても自首するなどした場合には、その行為を一つの情状として取り上げることに否やはないけれど、隠したことそのことのみを取り上げて、その犯人の性格分析や生い立ちや人格にまで追求するマスコミの手法にはどうにも納得のいかないものがある。

 話しが少し今週のテレビドラマから外れてしまったが、人はごく自然に嘘をつく生き物なのだと私は思う。「嘘つきは泥棒の始まり」などと、私たちは子供の頃から教えられ、嘘は悪なのだと言われ続けてきた。

 だが考えてみれば嘘のない生活などまったくと言ってもいいほど考えられない時代を私たちは生きているのではないのか。
 出勤で朝のエレベーターで乗り合わせた住民から「寒いですね、お忙しいですか」と聞かれ「ええ、お蔭様で・・・」と答える。事務所の電話が鳴る。金取引を勧誘したいらしい見知らぬセールスから「お忙しいところ申し訳ありません・・・」、仲間から「少し話し聞いて欲しいんだけど時間いい・・・」と始まる。「すいません、今来客中で・・・」、「いいよいいよ、これからコーヒーブレークだから・・・」、あれもこれも嘘のことが多い。

 交通事故を起こしたとする。あなたはその場を逃げ出すことをちらりとも考えないであろうか。もちろん罪の意識や、道徳みたいな感情であるとか、逃げてもいずれ捕まることなどが頭をよぎり、結果として逃げ出すことはしないかも知れない。だが誰も見ていない、絶対にばれない、人身事故ではないとあなたが確信したとき、それでも迷わないだろうか。私には迷わないと断言するだけの自信はない。

 「正直の頭に神宿る」のはもしかしたら本当のことかも知れないけれど、だからと言って「我こそは迷いなき神なり」とばかり嘘の事実を取り上げて糾弾しようとするマスコミの姿勢にはどこかついていけないものがある。

 そして木曜日にこの物語の一応の決着がついた。仏像が観光客用の偽物であり、買ってきた坊主自身そのことに気づいておりかつ仏像の腕を折ってしまったのは自分だと言い出したのである。
 かくして事件は万事メデタシメデタシで解決したことになるのだが、逆に私はそのことになんとなくしっくりこないものを感じてしまったのである。

 仏像が偽物だったことは、その仏像を壊したこと、壊した事実を隠したことにはなんの関係もないのではないかと思うのである。それは単に損害が軽微であったことを示すだけのものであり、壊したことを正当化するものでも、壊した事実を隠して嘘をつきとおしたことを正当化するものでもないと思うのである。

 また仏像の腕は以前から折れていたとしても、それは腕を折ったという責任が借りた側にないことを示すだけであり、腕を折ったのが自分だと思い込みそのことを隠したという行為を正当化するものではないとも思うのである。

 しかも嘘つきは更に一人増加した。寺の坊主なんだから仏に仕える者としてどんな場合も真っ正直であらねばならないなどとは必ずしも思わない。
 でもこのドラマの坊主は、海千山千の策士ではない。この嘘をついた4人以上に善人で正直でお人好しな人物としての設定である。その坊主が仏像が偽物であること、そして腕が壊れていることを、知っていながら相手にその事実を告げずに貸したこと、そうして返してほしいと催促までしていることになんだか無性に腹がたったのである。

 もちろんそのことを知らせていたら、月曜日から水曜日までの三日間のドラマ、坊主の懺悔まで含めると都合四日間のストーリーが消えてしまうのだから、番組編成上そうさせる必要があったのかも知れないけれど、それにしても坊主を除く4人の嘘を放置したままで安易に終わらせてしまったことになんだか理不尽さを感じたのである。安物だったんだからいいじゃない、被害がなかったんだからいいじゃない、被害者もいなかったんだからいいじゃない、では済まされないと思うのである。

 いい嘘、必要な嘘、美しい嘘・・・、そしてずるい嘘、傷つける嘘、破滅的な嘘・・・、軽い嘘、重い嘘、許せる嘘、許せない嘘、罪のない嘘などなど・・・。嘘にも色々な種類があるのかも知れない。だから「嘘は全部悪いもの」とひっくるめて割り切ることは間違いだなどとしたり顔で諭すつもりはない。

 ただ人は嘘をつく生き物だという事実をまず認めることから始めないと、嘘を明らかにし嘘であることを糾弾し、そのことだけで足れりとする発想からはなんにも生まれてこないのではないかと、そんなふうに思った今週の朝の連続テレビドラマであった。

 嘘はバラバラ殺人事件だけではない。不二家製菓の期限切れ原料使用問題やまたまた見つかった京都での一級建築士による構造計算書偽装や政治家の事務所費を巡る政治資金問題などなど、嘘は毎日のようマスコミばかりでなく向こう三軒両隣を含めて日常的にありふれている。

 日本航空では、新しい安全対策として「ミスの責任は問わない」ことを決めたという(28日NHK夜のテレビ)。つまりは責任の所在よりも事故原因の解明のほうが優先するとの判断であろう。責任を問わないことで、正直な報告がなされ、嘘をつかないこと、隠さないことが徹底されるとの思惑である。

 こうしたやり方がどこまで功を奏するかは分からないけれど、「人は嘘をつく」ことを余りにもあからさまに示すできごとだなと、なんだか奇妙に納得して見ていた。



                             2007.1.28    佐々木利夫


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善意も正義も嘘をつく