今日(5月16日)のNHKテレビ8時半からの特集は小児の臓器移植だった。この時間帯は通勤の最中なのでテレビを見ることはできないのだが、お供のポケットラジオはAM、FMに加えて12チャンネルまでのテレビ音声も受信できる。たまたま聞いたのがこの番組で興味のある話題だったことからそのまま聞き続けてしまった。

 話の中心は、現在の臓器移植が臓器提供の意味を理解できるとされる年齢を15歳以上と法定し、本人の同意を原則としているため、それ以下の年齢である子どもや乳幼児が脳死の状態にあってもその者からの移植が不可能であることにあった。
 どうしても移植を望むのであれば、結局外国(多くの場合アメリカ)の医療機関に頼るしかなく、その場合には手術費用に加えて渡航費用や滞在費なども含めると1億円以上もの負担を強いられるのだそうである。そんな負担は普通の家庭ではとても無理だから、結局、親戚、知人、そしてボランティアなどの応援を得て、街頭募金などの寄付集めになることが多いのだという。

 そしてつまるところ、日本でも15歳以下の臓器移植を認めよという主張になる。助かる命を見捨てるなの大合唱である。

 そのことは良く分かる。移植すれば助かる命の多いことは事実だろう。だが声が大きいのは全部と言っていいほど「助かる命」の側からの論理なのである。息も絶え絶えの小児、うつろな目を向ける力ない幼児、そうした子どもを見つめすがるようにテレビカメラに訴える母親、臓器移植さえやれればこの子は助かるのですと話す医者、評論家などなど・・・・、そうした映像のいかに説得力のあることか。

 でもその声の大きさに隠されて提供者(ドナー)の声は届かないし、取り上げられることもない。なんたってドナーは脳死してしまっているのだから。
 だが「助かる命」の問題は「助からない命」の反語でもある。そして問題となっているのは臓器なのではなく、命そのものである。

 そんなことは脳死を理解し納得する上では無関係なのだと割り切るべきなのかも知れない。臓器の必要と臓器の提供をパラレルではなく生きのびる命の視点からこそ捉えるべきだとする背景が必要なのかも知れない。
 だだどうしても臓器を必要としている側の論理には、提供される臓器を単なる利用できる物として理解しているだけのような気がしてならない。

 他人の臓器を自分が生き残るための手段であり物質だと認識することが間違いだと言いたいのではない。生理学的に脳死は死なのだろう。一つの事実として脳は死んでしまったけれど心臓は生きている、これが臓器移植の基本である。
 死んでしまった脳につながった生きている心臓は、残り僅かの時間と引き換えに確実に死ぬ。ならば心臓が死ぬ前にその心臓を必要としている患者に提供して生きながらえる機会を与えてもいいではないか。ついでに腎臓も肝臓もすい臓も、胃も腸もである。なんなら脳以外のすべてについて、技術的に確立してるかどうかの問題はともかくとして目も鼻も歯も背骨もである。

 番組は臓器移植に疑問を持つ者が抱いてるという、たとえば一本数十円、数百円のワクチン投与で救える子どもたちが世界には何万もいるのに、僅か一人のために億単位の金をかけることへの疑問を提示する意見も紹介されていた。
 私はその意見には与しないけれど、臓器を物体として割り切ってしまう考えにもどこかついていけないものがある。

 余りにも荒唐無稽な話で、臓器移植の話題からは離れ過ぎてしまうかも知れないが、例えば「命」そのものの移植というか引継ぎが可能な時代が来たとしよう。命とは何かはとりあえず置いておいて、そのときその引継ぎを認めてしまっていいのだろうか。

 色々な事情で死を考えている者がいる。日本の自殺者は年に三万人を超えている。その全てがそんな風に考えているわけではないだろうが、自分の命など無価値で無用で生きるに値しないと真剣に考えている者がいるだろう。自殺の意思は固い。命とは何かは難しい定義だけれど、命を絶つそのこと自体の理解は容易である。意思は固まった。冷静に考えての結論である。実行日も手段も決めた。死の瞬間に己の決断を後悔するかも知れないけれど、それこそ後の祭りなのだしそのことは自己責任の中に押し込めてしまおう。

 さあ今だ、別に隠れて死を選ぶ必然もないのだから、この命、必要な人へ提供しよう。生きるに値しない私のこれまでの人生だったけれど、そんな命でもそれを使って生き続けたいと願う人の願いが少しでも叶うなら、それもまた良しであろう。

 恐らくこうした意見に多くの人は反発するだろう。「生きている事実」と「戻れない死」の両者を混同するものだと批判するかも知れない。
 それでも私は、臓器移植の背景には、いずれ廃棄され無用のゴミになる寸前の「物」の有効活用みたいな考えが色濃く残っているような気がしてならないのである。間もなく無用になる生きている臓器と無用と自己判断した自分の命とはまるで違うのだとする意見への反論は難しいけれど、臓器を物として考えることにどこか違和感が残るのである。

 人が生きていると言うことは脳だけの問題ではない。安易に神を呼び出してそこに押し付けてしまうのは無責任だろうが、命は一人ひとりなのだし、そこから離れて命を考えることはどこか間違っているのではないのか。
 この命は私だけのものだと頑なにこだわってしまうことはいささか狭隘過ぎる考えかも知れないのだが、命の中に私を作り上げている肉体のみならず精神までをも押し込めてしまうと、なんだか臓器移植そのものを考え直してもいいのではないのかと思ってしまう。
 臓器を移植することそのこと自体を人の尊厳の問題として認めてはいけないのではないかという考えを抱くのは、どこか間違っているのだろうか。

 私は今臓器移植を必要としているわけではない。必要としている身内や知人がいるわけでもない。だからこんなふうに思うのかも知れないけれど、どこかで「他人の臓器で生きのびることへの後ろめたさ」が頭の隅に引っかかるのである。

 ドナーカードへ確信を持って○印をつけた。表示したことに何の疑念もない。脳死になったなら、この心臓も腎臓も必要とする者へ移植することを決断したことに誇りすら持っている。
 それでも私は思うのである。それでいいのだろうか。死、そして人とはトータルではないのか。脳死の場合の臓器提供を自己決定したことを、己の意思として認めることは果たして正しいことなのだろうか。己の臓器だとしてもそして提供が己の真摯な意思だとしてもその処分を個人の決定に委ねることは正しいことなのだろうか。自己決定を万能としてしまうのは人間としてどこか驕りがあるからではないのか。

 臓器移植の拡大を求める声が大きくなっている。だがどこかで、臓器移植という発想そのものをもう一度根っこから考え直してみる必要があるのではないかと、そんな声が聞こえるのである。
 そしてもし臓器移植を必要なものとして存続し拡大させるのなら、移植を受ける側よりも提供する本人や家族などへの思いやりであるとか尊敬であるとかいたわりなどを、もっともっと熱く考慮していくことが求められているのではないだろうか。



                          2007.5.18    佐々木利夫


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