エイズが世界に蔓延してきている。アフリカでの感染拡大が世界的な危機ではあるのだが、日本でも着実に患者数の増加が報告されている。
 厚生労働省のエイズ動向委員会の発表によると、本年(’08)7〜9月に新たに報告されたエイズウイルス感染者数は294人である(朝日新聞、'08.11.21)。三ヶ月間の感染者数としては過去最多であり、累計感染者は1万人を突破したとされ、感染原因としては同性間の性的接触によるものが72%と最も多く、日本人男性で97%を占めていると報告は続く(同)。

 だから「エイズ検査を受けよう」と政府や自治体が夜間の無料検診も含めてその対策に躍起である。そうした対策を分からないと言うのではないのだが、この「エイズ検査を受けよう」とのタイトルにくっついている「愛する人のために」の一言がどこか気になって仕方がない。

 エイズが例えば製造過程の検査が必ずしも十分でなかった時に作られた血友病の治療薬や手術時の血液凝固剤などに使われた血液製剤などに含まれてしまったウィルスによる発症であるとか、電車の吊り革などにつかまったことが原因による伝染であるなど、発症者本人の責めに帰さない理由で感染したのだするなら、このキャンペーンの言葉は何の違和感もなく受け入れることができる。

 だがかつて原因とされた血液製剤による感染は現在では皆無だとされているし、それ以外の感染ルートはエイズウイルスの感染力の弱さから言って性感染以外には考えられないと言われている。つまり、エイズに感染するルートはエイズ患者と性交渉を持つ以外には考えられないということである。

 だからこそエイズ検査を受けようとのキャンペーンは、単に熱が続いて下がらないとか、体に発疹が広がってきたなどのような特定の症状に呼びかけるのではなく、エイズに感染しているかも知れない者との性交渉を持った者を対象とした呼びかけになっているのである。

 だとするなら検査を呼びかける言葉に「愛する人のために」はないだろうと思ってしまうのである。そんな風に考えるのは私がなまじ法律に関係した分野に多少なりとも関わっていたことによるからなのかも知れないが、どうしても「クリーンハンドの原則」みたいな考えと真っ向からぶつかるような気がしてならないからである。

 「クリーンハンドの原則」とは、法はきれいな手の者しか助けない、つまり助けを求める本人にうしろ暗いところがあってはならないとする法律の立場である。例えば賭博は法律で禁止されている違法な行為である。この賭博で負けた者の掛け金を勝った者が法律に訴えて回収することができるかのような問題でもある。

 インフルエンザのように普通に生活しているにもかかわらず感染してしまうような感染症と、自己責任を自ら放棄したことによって感染してしまったかもしれない感染症とを同一視していいのかどうかの疑問であり、そこにどこか納得できないものが残るのである。公衆浴場や公共交通機関など不可抗力でエイズに感染することはなく、その原因ルートが限定的であるからである。

 確かにエイズ感染は命の問題であり、同時に感染が更に拡大していくかも知れないことに対する予防の問題でもある。そうして感染の拡大は自己責任を問うことのできない例えば配偶者や恋人、更には胎児感染にまで及ぶのだから、行政とて知らんぷりのできるものではないだろう。

 遊興や賭博による借金まみれや人としてどうしても許されないような行為を続けている人に対しても、その人に対する死刑判決の執行でもない限り、最低限度の生活を維持していくべき手段を講じるのが国としての責務である。
 そのことは十分に分かってはいるのだが、それでも人として当然守らねばならないことに対して何ら省みることなく足を踏み入れ、その結果として招いたことどもに対して他者に救いを求めることにはどこか身勝手さがつきまとっているような気がしてならず、それに国や地方が救済の手を差し伸べるというのにもいささかの躊躇がある。

 生活保護費の支給は現実の生活の困窮が要件であって、その保護にいたる経過にまで要件が求められているわけではないから、仮に一歩譲ってエイズ検査を無料で、夜間に、個人情報を秘して行政が携わることを認めてもいい。
 ただその場合でも、「愛する人のために」のキャッチフレーズにはどこか受診者に対する国のおもねりみたいなものが私には感じられてならないのである。



                                     2008.11.22    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



エイズ検査