昨年暮れの新聞に掲載されていたのだが、映画の山田洋次監督は北海道への提言として「『赤字』を自慢に思え」と書いていた(朝日、’07.12.30)。
 書いてあることの様々にまるで理解できないと言うのではないのだが、たとえ比喩にしろ観念論にしろ、はたまた一種の開き直りにしろ、こうした理屈はどうしたって現実には当てはまらないのではないかと思ってしまった。
 つまり自慢に思っているだけで赤字が消えていくことなど決してないと思ったからである。そしてどんな方法にしろ、赤字は消していくのが為政者なり市民に要求されている責務なのではないかと思ったからでもある。

 彼の理屈は「黒字を狙うことは簡単だ、福祉や文化をどんどん削っていけばいいことだから」を人質に、「台所が苦しいからそれらを削減するというのはあまりにも短絡的だ」と続ける。それはまさに「娯楽・文化をカネと秤にかける」ことの不合理を突くものである。

 そのことは良く分かる。だがそれは「どうしても必要だったから借りたんだ、決して賭博や麻薬などに使ったわけではない」などと言い訳しながら多重債務に陥っていくマチ金利用者の言い分と同じ理屈じゃないかと思ったのである。

 多くの人たちが借金地獄に陥らないでつつましいながらも穏やかな生活を続けていられるのは、そこに借りたものは返す、身の丈にあった生活をしていくという基本的な自律が存在しているからである。収入に見合った生活、背伸びしないで少し我慢する生活を自らに課しているからである。

 「安心して年をとれる、安心して子どもを育てられる・・・それは僕たちが税金を納めている自治体や国の責務で原点であるはずです。」

 彼はこんな風にも言う。確かに彼は現役の著名人で多額の収入を得ているだろうから、我々には想像もつかないほどの税金を納めているのかも知れない。でも彼のこの言葉は自分が税金を多額に納めていることを言っているのではないだろう。
 だとするなら、「安心して年をとれる、安心して子どもを育てられる」環境は、税金を納めているかいないかとは無関係ではないのか。税金を納めていない者にはそうした安心へ向けた自治体や国の責務は及ばないと言うのだろうか。

 そうではあるまい。恐らく彼の「僕たちが税金を納めている」とする言い分は、広く納税者一般という意味であって、具体的な納税の有無を言うのではあるまい。税金を納付しているかどうかという具体的な前提ではなく、一般的な市民という立場を納税者と言う言葉に置き換えたに過ぎないのだろうと思う。

 ところで安心した老後も安心した子育ても、多くの場合費用の負担なくしては成立しない。確かに世の中には様々な無料のサービスが存在する。札幌の市役所の広報をざつと眺めるだけでも、溢れるくらいの無料の行事が並んでいる。
 だが、そうしたサービスの無料は、結果として見かけだけにしか過ぎない。例えば無料の健康診断がある。公共の会場に集まってきた人たちに対して、数人の医者や看護師が問診をしたり血圧を測ったり血液を採取したりと一生懸命である。検査結果もきちんと知らせてくれるし、場合によってはそうした機会のあることを事前に郵便で知らせてくれることだってある。

 そうは言っても検診のどの場面をとってみても、そこに純粋の無料などありはしない。会場費は公共施設なのだからタダなのか。そんなことはない。建物はアラジンが魔法のランプをこすって出してくれたものではない。郵便料も、受付に座っている女の子の給料も、診察にきている医師や看護師への報酬も、検査のための機器や検査料などなど、名簿の紙一枚、検尿の紙コップ一個にだってタダのものなどどこにもないことくらい誰にだって分かる。

 それらはすべて税金という形で賄われているのである。そうしたサービスを賄うためには具体的に「カネ」が必要になるのである。それが1万円にしろ100万円にしろ、数千万、数億円なろうとも、目に見える現金が必要なのである。
 そしてそのために必要なカネは税金として徴収するか、はたまた借金というかたちで目の前に積まれていなければならないのである。

 日本人はカネへのこだわりをどうしても避けがちである。宵越しのカネを持たないことが江戸っ子の粋みたいな情緒が染み付いていて、カネの話を俗っぽいものとして表に出したがらない風潮を根強く持っている。
 確かに同じ給料を払っても、優しくにこやかな看護師とつっけんどんで冷たい看護師の違いがあるなど必ずしもカネでのみ割り切れない部分のあることを否定するわけではないけれど、世の中カネを抜きにして進むことなどほとんど考えられないのが現実なのである。

 多重債務者は最後には自己破産という呪文を持っているかも知れないが、自己破産だって借金が消えるのは本人だけであって、その反対側にある債権者が強制的に債権を放棄させられる事実を否定することはできない。もちろん多重債務における債権者の多くは違法金利や暴力的取立てなどを行っている者が多いのかも知れないが、自己破産の制度は債権者の正否や善悪を峻別しながら行われるものではなく、仮に善良な債権者であってもその債権は強制的に放棄させられるのである。

 さてカネのなくなった自治体はどうすればいいのか。現在多くの自治体が財政困難に陥っている。国そのものだって、国債残高500兆とも言われるまるで実感の湧かないくらいの高額な借金にまみれている。
 夕張市が財政破綻なって国から財政再建団体、つまりは赤字破産自治体の指定を受けたのは記憶に新しい。市民サービスはぎりぎりまで低下し、逆に市民税や市営住宅料金や様々な公共料金などの費用負担の増加が市民生活に直接降りかかってきていることはテレビや新聞の報道で容易に知ることができる。

 最近のNHKテレビの朝のニュースは、全国枠で公立病院の70パーセントが赤字であり巨額の負債を返済するために血眼の努力をしている現実を伝えていた。このままでは病院経営を続けていけないと嘆く自治体すらあった('08.1.25)。
 病院はまさに、安心して年をとったり子どもを育てたりすることの基本に位置するものである。彼、山田監督の論述からするなら、カネと秤にかけることなど問題外のことであろう。

 本当に赤字であることを自慢してもいいのであろうか。彼はこの論説をこんな言葉で締めくくられている。

 「いや、大丈夫・・・。一機、百数十億円の戦闘機や、一隻、千数百億円のイージス艦をいくらでも注文できる僕たちの国にとって、そんなことなんでもないはずだと信じたい。」

 こんな「信じたい」との言い方で赤字自慢を締めくくってもらってはこまるのである。「信じたい」が根拠ではあまりにも無責任な言い方ではないかと思うのである。

 「戦闘機などの軍事費への支出をなくせ」というのなら、そうした主張の是非はともかく整合性はとれているだろう。道路はもう要らない、外国への援助は止めよう、宇宙開発はアメリカに任せよう、政治家や公務員や学校の先生の数を半分にしよう・・・。なんでもいい、そうした具体的提言ならばそれを国民が直接にしろ選挙という間接的な手段にしろ検討し議論していけばいいことだからである。

 ところが赤字を自慢に思うというのはそれに安住することである。赤字をそのままにして置いてもいい、場合によっては増やしても構わないと思うことである。私は、「赤字・・・、ああそうなんだ、あっはっは・・・」と笑い飛ばすだけで物事が解決することは決してないと思うのである。

 山田監督の理屈には、どこかで「誰の犠牲もなしに借金はいずれ消えていく」、「最後はなんとかなる」、「誰かがなんとかしてくれる」、「国は打ち出の小槌を持っているから大丈夫」みたいな他人(ひと)まかせの身勝手さがあまりにもはっきりと見えるような気がしてならない。

 自治体や国の借金が自然に消滅してしまうことなど決してないのである。国が破産したときにどうなるのか、実は私にはよく理解できていないことは白状しなければならないだろう。日本そのものが自己破産みたいにまさに国際的にバンザイしたとき一体どうなるのか、なかなか実感できないでいるからそれだけ説得力も弱いことは分かる。それでも、恐らく国は国として生き残っていくために自己破産みたいな道はとらずに死に物狂いで借金を返していくような施策を講ずることだろう。

 国がそうした方法を選ぶということは、国民が選ぶということでもある。そしてその借金は、増えれば増えるほど、返済を将来へ延ばせば延ばすほど、借金をした者にではなくその子や孫などへと引き継がれていくのである。しかもその先延ばしが永遠に続く保証はない。

 国や自治体の借金をここまで増やしてしまった原因について、単に為政者を責めるだけでは片手落ちになるだろう。借金を増やせ増やせと音頭をとった市民や国民の存在、つまり我々自身の責めも免れることはできないだろう。だとするなら、そのつけは選挙という手法も含めて我々も負うべきである。サービスの低下や負担の増加などについてもう少し我慢する心を持たないと、赤字を自慢しているだけでは更なる赤字を増やすことになってしまうのではないだろうか。

 わたしにはどこか「赤字の自慢」の背後に、未来の子どもたちの苦渋の顔が見え隠れしてしまうのである。



                          2008.1.26    佐々木利夫


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