ライラックは花が枯れた跡に茶褐色の種がつきだし、この花の季節は間もなく終わろうとしている。それでも北海道の6月はとりどりの花が通勤を楽しませてくれる。

 事務所へと歩く道は基本的に交通信号が少なくしかも最短距離を狙うことになるので定番コースがほぼ決まっている。片道約50分くらいなのだが、到着10分ほど前に琴似発寒川にかかる「長栄橋」と名づけられた小さな橋を渡ることが多い。

 ところでこの琴似発寒川には、私の渡る長栄橋を含めて川の両沿いにけっこうな長さで遊歩道、つまり散策路が設けられているのである。どこまで続いているのかルートを確かめたことはないのだが、数年前に歩いた上流の桜並木、下流にある農試公園(農業試験場が近くにあるからなのだろう)沿いにもこの道は続いていたから数キロは続いているのだろう。

 さてこの長栄橋を渡る手前から散策路に沿って上流へと足を向ける。すぐに車の多い広い通りになるがそこを横断して更に上流へと足を進めると、突然に素晴らしい香りが漂ってくる。
 ライラックは既に終わりに近く香りの時期を過ぎている。それにこの香りはライラックではない。見渡すとこの川添いの地域はアカシヤが乳白色の花をたわわにつけている並木道になっているのである。

 アカシヤは大木だし、その花は木立ちのはるか上のほうで咲いているから普通に歩いているだけでは目線にはなかなか入りにくい。だがその優しい香りが私はここにいるよと知らせてくれているのである。

 アカシヤと普通は呼んでいるけれど、この木の本名は「ニセアカシヤ」が正しい。アカシヤという名に特別や意味はないように思うので、わざわざ「ニセ」を冠して贋作まがいの名前をつけないでもよかったのではないかと常々思っているのだが、「イヌノフグリ」みたいに珍妙な名前をつけられた植物もあることだし、恐らくは「アカシヤ」という木、つまりは本物が先にありそれに似ていることから命名されたのだろうから仕方がないというべきか。

 アカシヤは今から四十年以上も前になるだろうか、西田佐知子が歌った「アカシヤの雨が止むとき」で一躍有名になったけれど、そのアカシヤも本物のアカシヤではなくニセアカシヤが主人公である。北海道ではいたるところで見ることができるけれど、この木は日本中に分布しているらしい。大木になるけれど、枝先近い部分にはけっこう鋭くて大きな棘がついていて、花のあとにはさやえんどうのような長さ5〜6センチもの実がつくのである。食べられるような形にまではならないしまた食べたこともないけれど、絹さやのような実の形からして恐らくマメ科の植物なのだろう。

 まだ6月である。草むらも山肌も徐々に夏草に変化していっているけれど、それでも草いきれの季節にはまだ遠い。アカシヤの香りは静かに漂い続けている。ここ数日は雨も少なかったせいか川の流れも穏やかで水の色も透明である。事務所へは次の発寒橋を渡らなければならない。いつもは一つ前の長栄橋をわたるのだから、発寒橋を渡っても事務所へはほんの少し遠回りになるだけである。

 この僅か数十メートルの河畔の散策路にアカシヤの木はざっと数えただけで26〜27本はあった。そのアカシヤの全部が今を盛りと乳白色の花をつけているのである。

 不意打ちのように小学校の修学旅行を思い出した。旅行先にアカシヤがあったのではない。旅行の土産にアカシヤの香水の小瓶を買ったことをふと思い出したのである。
 小学生だって好きな女の子くらいいたとは思うけれど、その子に香水を渡そうなどと、そこまで考えたとは到底思えないから、単純にいい香りだったことと、少ない小遣いでも買えるくらい安かったのだろう。他に何を買ったか覚えてはいないが、旅行先は洞爺湖温泉だったから温泉街の修学旅行のみやげ物と言えば、菓子か竹製の孫の手かそれとも温泉名の入った木刀みたいのが定番だったからそれらと一緒に買えるくらいアカシヤの香水も安かったのだろう。

 いまでもアカシヤの香水なんて売っているのだろうか。もっとも香水なんかなくたって、この木立ちの下を歩くだけでアカシヤはその存在をしっかりと教えていてくれているし、こうしてすっかり忘れていた小学校時代にまで記憶を呼び起こしてくれる。
 季節は6月である。三月決算法人の申告も5月末(今年は6月2日だった)で済んで、今のところ急ぐ仕事もない。つまりは事務所へはいつも通りの時間に着いたとしても、恐らく電話も来ないだろうし今のところ来客の予定もない。川沿いを少し遠回りしたところで、そしてゆっくり歩いたところでまさに自己責任のきままな事務所行である。なんなら木立ちの草むらに座り込んでしばしの休憩をとったとろこで誰に迷惑をかけることもない。

 座り込むことこそしなかったものの、私はアカシヤの下をゆっくりと歩くことにした。アカシヤの幹はゴツゴツと荒いけれど、その手ざわりとは対照的に清楚な淡いクリーム色が枝々を飾り、そこから幼い記憶の香りが漂ってくるのである。

 アカシヤは一本の細い枝の両側に一円玉より少し大きい楕円形の葉を数十枚つけている。その細い枝を片手で軽くしごくと葉っぱだけが掌に残る。それを2〜3本まとめてしごいて空中に放り投げるとまるで手品のように手の中から葉っぱがふわりと飛び散るのである。
 それは忍者小説に影響されてマキビシを真似たのだろうか、それとも映画で見た歌舞伎の土蜘蛛が手の中から糸を吐き出すさまに触発されたのだろうか。果たして私は子供の時、どんな気持ちでこの葉っぱを何度も何度も宙へと撒き散らしたのだろうか。その時の気持ちを今となっては呼び戻すことなどできはしないけれど、それでも確かに空高く葉っぱを放り投げた記憶がこの優しい香りの中でゆっくりと甦ってくる。

 ゆっくり歩くということは、世の中の雑音から遠ざかることでもある。心なしせせらぎの音も、あわただしい世相の動きをしばし止め、時間を子供の頃に戻す手助けをしてくれているようである。



                              2008.6.11    佐々木利夫


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アカシヤのある川辺