中には情状酌量のみを求める量刑を主体とした事件がないではないけれど、刑事裁判の多くは事件全体かまたは殺意などを巡る部分的な争いに止まるかはともかく、イエスとノーとが対立する場でもある。そうした対立する主張に対して判決はどちらか一方に軍配をあげる。
 そうした判決は、もちろん個別の事件の様々な事実認定の結果によるものだから個々の事件固有の判断としての意味を超えるものではない。
 だが事実認定に至る道筋であるとか特定の事実に対する法律解釈などは、別の事件であっても同じような事実認定や法律解釈が必要とされる場合などには、裁判官は似たような判断を示す蓋然性が高いのではないかと思われるなど頼りになることが多いだろう。

 しかも裁判は特別な場合を除いて公開であり(憲法82条1項)、そのことは判決もまた公開の場で下されることを意味しているから、判決に書かれた事実認定や法律解釈などの道筋は、他の類似の事件に係わる当事者はもとより学者や学生、更には直接関わりのない者にとっても先例として参考になることが多い。

 判決文の公開は恐らく最高裁が先例となるかどうかを判断して決定するのかも知れないが、多くの事件についての判決内容は地裁、高裁も含めて雑誌や専門誌などで知ることができる。
 特に最高裁の判断はそれが司法としての最終判断であること、後発する同じような事件は最高裁で同じように判断される可能性が高いことなどから「判例」と呼ばれて、事実上下級審の判断を拘束するような結果にもなっている。

 さて表題の判決である。この事件は2004年2月、市民団体「立川自衛隊監視テント村」のメンバー三人が、東京都立川市内の防衛庁官舎の郵便受けに「イラク派兵反対」を掲げるビラを投函したことを理由として「住居侵入罪」容疑で逮捕されたものである。
 一審の東京地裁八王子支部は2004.12.16に無罪の判決を下したが、控訴審の東京高裁は2005.12.9、逆転有罪を言い渡し、そして上告を受けた最高裁が2008.4.11に上告棄却、つまり有罪を認めたのである。

 この事件は表現の自由を巡る憲法問題をからめて話題となった。表現の自由は基本的人権の問題でもあるから、そのことに対する司法の判断、特に最高裁の判断に色々な人が興味なり関心を持つのはむしろ当然のことだと思う。
 最近の新聞にこの事件を巡る論者の意見が載っていた(2008.4.15 朝日 「私の視点」、国家が「平穏」守る危うさ」、奥平康弘・東大名誉教授)。

 タイトルからして筆者が最高裁判決に批判的な考えを持っていることは理解できるし、そのことに反論しようとは思わない。
 ただその批判の論点が、「市民にとっては、ビラ配布は、自己の見解を伝える手段として重要だ。ビラを読みたくない人は捨てればよいだけのことだ。」にあることに、むしろその点にしか理屈がないと思えたことに何だかすっきりしないものを感じてしまったのである。

 それはこのコラムの「私の視点」と言うタイトルが皮肉にも示しているように、筆者の視点が判決とはまるで違っているのではないのかと感じたことである。つまりここにある筆者の意見は、まさに最高裁の判断の視点をすりかえているのではないかと思ったのである。最高裁は決して、読みたくないビラかどうかを判断の基準としたのではない。そのビラが内容的にどうなのかを判断の基礎にしたのではない。

 問われたのは「住居侵入罪」である。「立ち入りを強く拒まれている場所でビラを配ること」、つまり「立ち入りを強く拒まれている場所へ許可なく立ち入ること」の適法性が問われたのであって、ビラの内容やビラの適法性ではないのである。
 自衛隊の官舎には関係者以外の立ち入りやビラ配布を禁じる旨の掲示板があり、被告はその事実を知りながら月に一回程度、各家庭の玄関前まで立ち入って新聞受けに配布を繰り返したことが認定されている。

 この筆者の「読みたくなければ捨てればよいだけのことだ」として判決を批判する意見は、実害がないのだから禁止された場所に入ったって許されるし、許すべきだと言っていることと同じである。つまりはビラの配布が目的であれば、その内容にかかわらず禁止された区域に立ち入ることに違法性はないと主張しているのと同じである。
 論者は「ビラを配布するためです」とさえ主張すれば、その言葉は水戸黄門の持つ葵の印籠と同じ効果を持つのだと言っているのであろうか。

 それは、言論の自由、表現の自由、国民の知る権利などと言った金ぴかに輝く看板に名を借りた余りにも無謀な主張である。「読みたくなければ捨てればいい」とは、なんと身勝手な主張であることか。

 さて、最高裁はビラの内容について言及しているわけではないが、この「・・・捨てればいい」との理論だって考えてみれば変な理屈である。ビラの内容を自分の目で判断し、自己の責任で採否を決めればいいと言う言い方は、一見まもとな主張のように感じられるけれど、そんなこと言っちまったら猥褻画像だろうと麻薬売買の勧誘だろうと殺人の請負広告だろうと、ビラの内容を第三者は事前に知ることなどできないのだから、この理屈を押し通すならあらゆる表現は無批判に許されることになってしまうのではないだろうか。

 「自分は見たくない」、「子どもや家族なども含めた自分以外の者にも見せたくない」ことだって、やっぱり基本的人権の中に含まれるのではないかと思うのである。判決における事実認定をきちんと読んだわけではないけれど、ビラの中には「殺すのも殺されるのも自衛官です」との言葉があったとも言われている。この官舎は自衛隊の家族の住む宿舎である。だからこそこのビラの効果があるのだと配布する側は考えるかも知れないけれど、繰り返し繰り返しこうした肉親の死への関与を予告するような言葉を投げつけられる立場に立てば、それは単に「読みたくなければ捨てればいい」で済む話ではないだろう。

 そしてこの官舎への立ち入りを許可制にした背景には、こうしたビラの問題だけではなく不審者が学校にも路上にもいたるところに現れるという現状もあるのだと思う。それは人が人を信じられなくなってきている現在の世相を示しているからなのかも知れないけれど、現に常識では理解しにくい犯罪が起きていることを考慮するなら、見知らぬ者を立ち入らせないように配慮することは、保安や安全の面からも必要なことである。

 マスコミや識者と称する人の多くは、余りにも言論の自由と言う言葉にこだわり過ぎているのではないだろうか。表現の自由という呪縛からの解放は、マスコミそのものにも識者と自称する言論人にも必要な時代になってきているのではないだろうか。



                          2008.4.18    佐々木利夫


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ビラ配布有罪判決