退職してから間もなく10年になろうとしている。そうは言っても引き続きこうして税理士事務所などといっぱしの看板掲げて自宅から通っているので、それほど退職の実感が伴わないのも事実ではある。
 ただ公務員時代の時間に拘束された生活に比べると、こうしたひとりの事務所のひとり天下の生活は同じように朝出勤して夕方自宅へ戻ると言う時間帯の繰り返しではあってもなんとも気楽な稼業ではある。

 もちろんその背景にはそれほどしゃかりきに仕事をしている訳ではないことにあることは否めない。一生懸命仕事をすると言うことはそれだけ収入も多くなることではあるのだが、逆にそのことは自分の時間の切り売りでもあることを示している。
 若い頃は仕事に突っ走ることがそれなり正義ではあったのだが、こうして人生の折り返し地点をとうに越えてしまっている身になってみれば、残された時間もまた貴重だと思うようになってくる。

 ところでその残された時間のことなのだが、貴重であることの基準が段々と世間の常識からずれていっているような気のしないでもない。
 つまり「貴重な時間」と「充実した時間」の違いとでもいうのだろうか、無駄を排除した中味の濃い時間の過ごし方と言う様な有意義さみたいなものを必ずしも望んではいないような気がしてきているのである。

 そうした感じは、つい数日前の新聞記事に違和感を感じたことで改めて気づいたのである。それは「あなたの安心・快適、電車通勤術B」(朝日、'08.3.12)を読んでいるときであった。
 若い頃も含めて電車通勤などしたことはなく、長くてせいぜい20分〜30分のバス通勤程度だったから、本を開いて時にウトウトするくらが関の山だった。だから通勤時間の有効活用なんてことはあんまり考えたことなどなかった。

 その記事には通勤時間の使い方として「まず、何をやりたいのかを明確にすること。資格をとりたいなら、電車内でその勉強をする。疲れをとることが最優先なら寝ればいい。目的が決まれば、すべきこともおのずときまるからだ。ぼーっとするくらいなら、頭の中だけでも仕事の準備をすることを勧める。」とあった。

 言ってることがまるで分からないと言うのではない。内容が変だとか間違いだと言いたいのでもない。ただ、電車で寝ることにすらも、「疲れをとることが最優先なら・・・」と目的だとか意義みたいな理屈を求めようとする態度にどこか私の思いとは違っているのではないかと感じたのである。
 この記事はまさに「ぼーっとすることは間違いだ」と、あからさまに指摘しているような気がする。何かをしているか、何かを考えていることが正義であり、何にも考えないでただぼーっとしている時間の過ごし方は誤りだと指摘しているのはないだろうか。

 そう言えば私の若い頃、雑誌の裏表紙などに広告として掲載されていた通信販売の商品に睡眠学習機なるものがあった。なんのことはないエンドレスかもしかしたら自動タイマー付きのテープレコーダーにヘッドホンをつけたもので、小さな音量で学習テープを聞きながら眠るとそれだけで英語、数学に限らずどんな科目でも「目覚めた時にあなたは天才」という仕掛けである。
 つまり、効果の程はともかく睡眠と言う本来休息であるべき時間帯にまで学習を押し込むことができるという優れものであった。

 思えば我々は長い間忙しいことは善であり、ボーっとすることは常に悪だとみなしてきた。勤勉こそが正義であり、より早く、より高くが至高の目標であり、そのための不断の努力こそが人生の目的なのだと教えられてきた。「お忙しいですか」は、「忙しいか」どうかの状況を聞いているのではなく、正しい目標を持っているかどうか、その目標に向かってきちんと努力をしているかどうかの問いかけだったのである。そして「忙しくない」状態はたるんでいたり緩んでいることであり、それはまさに無為であって貴重な時間の無駄遣いと判断されたのである。

 けっこう人気の高い刑事もののテレビ番組らしいのだが、最近見た「相棒」というシリーズの中に、主人公の仕事部屋に隣接する別のセクションの課長が「暇か?」と声かけながら時間つぶしのコーヒーなどを飲みにくるシーンが必ずと言っていいほど出てくる。

 この「暇か?」の科白には見かけ上、「お前たちは暇でいいなあ」との羨ましさを秘めているのだが、それは決して本来の羨ましさを示しているのではない。まさに一昔前に流行った「窓際族」を象徴しているようなもので、「俺たちは忙しく生甲斐のある仕事をしている。それに対してそうした生甲斐のない暇なお前たちは可哀想だな」との思いが隠されているのである。

 ところでこの小さな事務所では時間の管理はまさに自分任せである。まあそうは言っても税理士として仕事をしている訳だから、定期的に巡ってくる申告期限だとか納付期限などという国家機構の怪物にまでこちらの自分任せを押し付けるわけにはいかない。ただこれとても仕事の量との兼ね合いの問題であり、少ない仕事には少ない怪物しか押しかけてこない道理である。

 少し前までは「余暇の善用」みたいな強迫観念があって、「暇」もまた有意義に過ごすべきではないかとの思いのないではなかった。
 読書も音楽を聴くのも有意義な時間の過ごし方の一つの方法であり、テレビを見るのだって例えば教養番組はいいけれどお笑い番組には抵抗があるみたいな感じがないではなかった。

 そうした背景には、どこかでそうした時間の過ごし方に対する他者からの評価を意識するみたいな心があったからではないかと思うようになってきた。つまりは私も「忙しいことが善である」という観念からなかなか抜け出せないでいたと言うことでもあろう。
 しかし考えてみれば、私の時間は私だけの時間である。他者の評価で私の時間が長くなったり短くなったりするわけでもないし、その味わいもまた私だけのものである。

 いつだったろうか、つい数日前だったような気もしているのだが、テレビでこんなことを言っている人に出会った。
 「お忙しいですか?」と聞かれた時、私は「忙しくしている暇なんてありません」と答えるようにしているんですよ。

 どうもそこまでの覚悟は私には難しいような気がしているけれど、それでも「無為の時間」というのもそれほど悪くはないもんだと少しずつ思えるようになってきている。
 それともう一つ。あんまり仕事をしないということはそれに伴って収入も少ないことになることは冒頭に書いた。しかし、少ない収入にあれこれ我慢をしていると言うのならもう少し稼ごうかという発想にもつながるのだが、そんな収入にも満足できているのなら話しは別である。

 まあ、ハワイに別荘でも建てようと思ったり、自分のクルーザーで世界一周なんてことを考えているのなら格別、この小さな事務所だって本一冊広げたり、うとうと居眠りするだけで広大な宇宙に変身したりもするのだから、考えて見れば人の生活なんて考えようよってはチョロイもんさとさえ思ったりもしている。
 もちろんそのことは、もしかしたら怠惰と言う怪獣がしっかりと身についてきていることの紛れもない証左なのかも知れないけれど・・・。



                          2008.3.17    佐々木利夫


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