最近の食の信頼への揺らぎにはすさまじいものがある。許可されていない農薬の混入や意図的な薬品の添加などに加えて、偽装表示まで含めると何を信頼して食品を購入していいのかまるで分からなくなるまでの混乱が続いている。

 食品の表示偽装にまでなってしまえば、消費者としてはせいぜいが臭いや調理後の味覚など自らの五感に頼る以外、まるっきり対抗する手段がなくなってしまうことになるからここでは書かない。

 ところで商品には様々な表示がなされている。消費期限だの賞味期限だのが代表例かも知れないけれど、その他にも製造月日や添加物の成分やカロリー表示など加工食品の包装の裏側などには細かな表示がびっしりと書かれている。それぞれが表示を義務付けた法律なり条例に基づいているのだろうから、必要があって義務化されたということであろうし、事細かにそのすべての意味について理解できるわけではないけれど、その必要性がまるで分からないということではない。

 最近のNHKテレビも「消費者にとって選択するための情報が多ければ多いにこしたことはありませんからね・・・」と食品の情報開示について締めくくっていた。テーマとして「原産地の表示」に関わる問題を取り上げ、例えば品質の均一性や多様性などから加工度が高くなるにつれてメーカーとしても技術的に困難になることなどにも触れていた。そのことは分かる。だが、消費者にとって情報が多ければ多いほど選択の利便性が増してくるかのようなまとめ方は正しいのだろうか。

 「原産地表示」について考えてみようか。あなたは今スーパーでギョーザを買おうとしたとする。昨年の暮れから毒入りギョーザ問題が起きているのだから、わざわざギョーザにしなくても他におでんでもサンマの塩焼きでもいいではないかと思うかも知れないが、残留農薬の問題まで含めて考えるなら今どき信用できる単一品種で食事の支度をしようなどと考えたら食べるものなどどこにもなくなってしまうだろうから、今日はギョーザにしよう。

 残念なことに私はギョーザを手作りしたことがないので材料の全部を知ることはできないけれど、皮と肉と野菜が主なものだろう。恐らくそんなに単純な構成ではないと思うのだが、仮に皮はメキシコ産の小麦、肉はオーストラリア産の豚肉、野菜は中国産のキャベツとスペイン産のにらだとする。それに調味料としてニュージーランドの塩と国産の昆布ダシ、そしてソ連産の防腐用添加物に限定してみようか。

 もちろん原産地の表示は全国的には生鮮食料品など限定的な製品に限られており、加工食品の原材料に関しては都道府県などに任されてるいるケースが多い。しかもその原材料も製品全体の50%以上を占めるものに限られているようである。だからギョーザについてそんなに皮から肉や添加物にまで原産地表示が義務付けられているわけではない。
 たが、原産地表示とは技術的にどこまで可能かどうかはともかく、構成割合が50%未満だから省略していいという性質のものではないだろう。

 ここに掲げた食材名と原産地は私の勝手な表示である。そうではあるけれど、ギョーザを構成する原材料がこれだけだとは言えないだろう。皮も肉も野菜ももっと複数の材料が使われていると思われるし、食品添加物もこんなに単純なものでは決してないだろうことくらいは容易に想像できる。

 今日のニュースでの原産地表示の問題の中に、品質全体の安定化のためには一定の品質の野菜が必要であり、そのためには例えば4月のキャベツは中国、8月はスペイン、11月になったらアルゼンチンなどと世界各地から調達する必要があり、野菜以外も含めてその都度食品包装の袋に国名を表示することは印刷や調達手段の多様化などから技術的にも困難であることを掲げていた。だからキャベツ(中国、スペイン、アルゼンチン)などのように並記するのだと・・・。
 しかし、現在は例えば生卵の殻に直接プリントするような技術もあるのだから、こうした言い訳はメーカーの身勝手な屁理屈だとは思うけれど、まあ良しとしよう。

 だがそれを置いても、あなたはこうして原産地を表示された食品の袋を眺めてどんな選択をするのだろうか。そもそもオーストラリア産の豚肉と中国産のキャベツが混じったギョーザを眺めてあなたは何を判断しようとしているのだろうか。

 牛を食わない宗教上の戒律だとか、アルゼンチンへ旅行して楽しかったからその土地のものを食いたいなどと言った理由のために原産地表示がなされているわけではない。ことは食品の安全安心のための選択指針である。ならばどんな基準であなたはこの様々な国々の記載から、食の安全を判断するのだろうか。

 農薬だ、メタミドホスだ、メラミンだなど最近の中国産の食品は全体的に信用できないような気がするので、中国産が含まれている食品の一切を買わないことにする。なるほどそれはそれで一つの賢明な選択である。少なくともその選択によって中国産の原材料が含まれていることによる中毒などの被害を免れることができるからである。それではそのために原産地表示があると考えていいのだろうか。それなら原材料を特定することなく、当該食品の原材料中にトータルとしての原産地国を表示すれば足りることになるからである。

 いやいやそうではない、肉だとかキャベツだとか乳製品などのそれぞれについて安全を確かめたいから原材料についての産地表示が必要なのだと言う人がいるかも知れない。それが正論であろうが、でもそれは本当にそうだろうか。仮に原産地の表示が完璧になされたとして、私たちはその原産地が示す諸々の食材それぞれについて、それがどの程度安全かをどこまで知り、また知り得るだろうか。

 肉を買い、魚を買い、野菜や豆腐やかまぼこや、時には野菜サラダやチリ鍋セットやおでん詰め合わせ、そして冷凍食品など、家庭で調理するものから暖めてすぐに食べられるような各種の調理用品までのすべてについて、原産地のその食材や添加物の内容について購入者はどこまで知識を持っているだろうか。そして調理用品などのように各種材料が混合されている場合に、消費者が選ぶ原産地表示の選択基準は一体どこに求めたらいいのだろうか。

 恐らく購入者の多くは、まず第一に「国産か否か」を拠りどころにするのではないだろうか。そしてその次に「最近は中国の噂があんまり良くないので、中国産の表示のあるものは少し控えよう」が来るのではないかと思うのである。そして更に私は思うのである。そうした「どこどこの国の食品が胡散臭い」との情報は、恐らくマスコミが発表するデータによるものであり、少なくとも問題とされた食品は問題発覚かまたは公表された時点で、発売元からの通報かスーパーなどの自主的な判断で店頭から既に撤去されているのではないかと・・・。

 仮に原産地の表示が完璧になされていたとしよう。そしてその表示に関してどんな偽装もないことを信じることにしよう。さて私たちはその原産地表示から一体何を選ぼうとしているのだろうか。ギョウザだけではない。ピザや肉まんやレトルトカレーなどなど、包装の裏に書かれた溢れるような外国の地名の氾濫の中から、私たちは一体何を探そうとしているのだろうか。そしてその探しているものは、単なる国の表記だけで満足できるものなのだろうか。例えばあなたが原産地にこだわるとして、原産地ソ連と書かれている今の表示で、あの広大なソ連のどこでその製品が作られたのかを知ることなく、単にそれだけでその食品に対する安心と安全が得られると本当に思っているのだろうか。

 アルゼンチン産やベトナム産の鶏肉との表示を見て、誰が、どんな風に区別して購入しているのだろうか。だから私は、原産地表示は結局、例えば「ベトナムで悪性の鳥インフルエンザが流行しているとの報道があったからベトナム産が含まれている食品は一切買わない」と言うような風評的な使い方以外には何の効果もないのではないか、つまり「具体的な個々の食品の安全」にはまるで寄与していないのではないか、これからも寄与する効果は望めないのではないかと思っているのである。
 私たちが例えば「国産」を信頼する背景には、国産であることに対して農家や産地や公共団体などの組織が当該産品が安全安心であることを、きちんとしたシステムの構築によって保障していることにあるのではないだろうか。

 世は挙げて自己責任を振り回す時代になった。食品だけではない。金融、医療、教育、政治などなど、あらゆる分野に、「国民として自分を守るために努力すべきだ」との自己責任説が蔓延してきている。そのことは「正論の衣」をまとって、時に表示を信頼すぺき背景もないまま不可能とも言えるような努力のみを消費者に要求し押し付け、自己責任を全うしないことがあたかも消費者個人の責めに帰すような論調は、やっぱりどこか変だと思うのである。



                                     2008.10.24    佐々木利夫


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食の信頼と原産地表示