原爆被爆者を救うなと言うのではない。だが最近被爆者に対する認定基準が改定されたとのニュースを聞いて、例えば交通事故や災害や公害などの被害者と被爆者とは、一体どこが違うのだろうかとどことない疑問を感じてしまった。
 それは被爆者を救済するという理屈と、台風や地震で被災した人や交通事故で大怪我をした人を救済するという理屈との違いの基準をどこに求めたらいいのかと感じたことであった。

 確かに原爆投下による死者は広島で14万人、長崎7万人とも言われており、被爆者にいたってはまさにその定義が確立していないこともあって諸説あるけれども30万人を超えているとされている。しかも被爆による後遺症で毎年毎年数千人が死亡しているのだから、60数年前の原爆投下のすさまじさには息を飲むものがある。

 被爆者に対しては平成6年に「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が制定され(それ以前の「原子爆弾被爆者の医療に関する法律」や「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」は新法の成立に伴って廃止された)、国による救済制度が確立している。

 こうした被爆者に対する医療や経済的な支援を国が負うというシステムはそれはそれでけっこうなことだと思う。
 ただこの被爆者認定の基準となっている、例えば原爆投下から何日以内に爆心地に居たことであるとか、爆心地から何キロメートル以内に居住していたなどの基準が実態に合わないとの被爆者であると主張する者からの訴えで拡大される方向で改定されたことにどことない不自然さを感じてしまったのである。

 それはつまり「被爆者」の範囲を拡大せよとの主張に沿って僅かにしろ拡大されたことについてである。もちろん範囲の拡大を求める意見そのものを批判しようとしているのではない。法律は被爆者を支援するものとして作られており、被爆の実態は法律で予定する範囲を超えていたことも様々な報道で理解できた。しかも被爆者として認定されなければこの法律に基づく救済は得られないのだからその認定範囲を実態に沿うように改正せよとする意見は当然である。
 だが救済の範囲を被爆者に限定するという国のシステムになんだか戸惑いを覚えたのである。

 それは認定制度は当然のこととして認定されない者を産むことにつながることに対してであった。それは認定というシステムそのものがどこかで線引きを予定しているのであるから当然のことである。だからそれを認定と呼ぶのである。

 でも考えても欲しい。「認定されなかった者」が経済的にも裕福で治療を要するような疾病を持っていないことを理由として外れたのならそこに私は何の疑問も抱くことはない。何をもって平均的と呼ぶかは難しいけれど、少なくとも平均的な日本人として当たり前の日常生活を自力で維持できるような境遇にある者に対して被爆者認定から外れたというのならこれほどの疑念は抱かなかったと思う。

 被爆者として認定されなかったということは、原爆による放射線の被害者でなかったことを認定したに過ぎないからである。
 私は認定の基準についてそれが正確であるかどうかを問題にしているのではない。実態的に被爆者であるにもかかわらず認定の方法などで漏れてしまって救済を受けられない場合のあることを疑問視しているのでもない。どんなに正確で理論的で完璧な認定がなされたとしても、それは「被爆者でない」ことを認定したに過ぎず、その人の現状の認定にはなっていないことにどことない苛立ちを覚えるのである。

 被爆者を救済することが目的の法律なのだから、被爆者でない者に対してまで救済の手を延べることはできない。そのことは法律の意味や目的からして当然のことだと了解しつつ、救済とはそんなことではないのではないかと思えてならないのである。
 被爆者を救済するという法律があって、その法律要件に該当する者を救済するという制度は間違っていないのかも知れない。

 私自身の中でこうした救済をめぐる法律の位置づけが混乱しているのかも知れないけれど、被爆者だけを救済するという法律の制定も、被爆者の認定基準をもっと広げよと主張する者も、ともにどこか「被爆者」を切り取ることに麻痺してしまっているのではないか、つまり、認定されなかった者への視点がまるで欠如しているのではないかと思ったのである。

 認定されなかった者には、例えば生活保護法であるとか、災害救助法、犯罪被害者救助法などなど、それぞれに対応した救済方法があるはずだからそれによるべきだとの意見があるかも知れない。ならば被爆者には被爆者と認定される以外にはなんの救済もないというのだろうか。被爆者には被爆者であるという理由だけで生活保護も難病認定や医療扶助など、どんな救済も認められず路傍に放置されるとでも言いたいのだろうか。そんなことのないことは様々な扶助制度の存在が示している。

 被爆者としての認定を幅広く認めるべきだとする主張の背景には、生活保護による生活扶助や医療費の補助などよりも、被爆者として認定された場合の援助の方が高額、もしくはより手厚いのだろうか。もしそうだとするなら、その手厚いことの根拠をどこに求めたらいいのだろうか。交通事故によって生活や治療に苦しんでいる多くの人々へ手を差し伸べることと、被爆者に対する援助の差をどんな理由で説明できるのだろうか。

 それとも第二次世界大戦というやりきれない暴挙、そしてそれが結果として原子爆弾の投下という悲惨な事態を招いてしまったことに対する国としての懺悔の手段としての意味があるのだろうか。もしそうなら東京大空襲や沖縄戦などによる被災者、いやいや赤紙で徴兵された多くの兵隊やその遺族などなど、戦争にまつわる多くの嘆きの数々と被爆被害とをどこで峻別するというのだろうか。

 そしてもう一つ。被爆者数という数の問題なのだろうか。地震や台風などの被災も含めて、行政が動こうとする背景には多くの場合「多数の被災」があるような気がする。しかもそうした行動に我々は無意識に賛同し納得してしまうような気がする。
 しかし、千人が怪我をしたとしても、怪我をしたのは一人一人である。一万件の家が倒壊したとしても、その建物に住んでいた者にとってそれは我が家一軒の倒壊である。怪我や建物倒壊による嘆きの大きさは、数によって変るものではない。千人の怪我が千倍の痛みを伴うものではない。

 被爆者の嘆きを交通事故で両親を亡くした遺児の嘆きと比べられるのだろうかと私は思い、被害者の救済というのは決して数の問題ではない、数の問題として扱ってはいけないのではないかと思えてならないのである。

 だから私は、あまりにも単純な発想かも知れないけれど「困っている人救済法」みたいな法律だけで用が足りるのではないかと思っているのである。たとえ日本中にたった一人しか該当しないケースであったとしても、その人が現に「困っている」と認定されるのならば、被爆者と区別することなく医療でも住宅でも教育でも生活の維持そのものでも、その困っている認定の度合いによって支援していくべきだと思うのである。

 そうした包括的な支援に関しては生活保護法という立派なシステムがあるじゃないかと言うかもしれない。だったらどうして被爆者支援法みたいな限定された認定制度が必要になるのだろうか。



                                   2008.4.10    佐々木利夫


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