この事務所を開いてから間もなく10年になるが、毎日の通勤のパターンはほぼ同じような繰り返しになっている。NHKの朝の15分ドラマは数十年と言ってもいいほど8時15分に始まっている。昔のドラマは一年周期だったような気がしているが、今は年二本が普通になっている。
 ドラマのストーリーに興味のあるなしはその時々で様々だが、退職前の税務職員の時は出勤時間が8時30分だったから見る機会は少なかったものの、税理士事務所を開いてからはとりあえずこのドラマを見終わって自宅を出るのが仕事の時間帯にもちょうど都合がよいようで定番になっている。

 さて現在のこの朝ドラのタイトルは「瞳」である。東京築地月島で3人の里子と暮らしている祖父のところへ同居したヒップホップダンスに熱中する20歳の少女「瞳」の物語である。祖父、孫、そして3人の里子の様々な葛藤がダンスに夢中になっている主人公の人生に重なっていく。

 ドラマを構成する哲学みたいなものには様々なものがあるだろうけれど、半年見ていた感じではその一つに「嘘をつかないこと」がある。お父さんと呼ばせている祖父と里子の関係は、まさに実子でない者との「親子になる」ことを目指しているのだから、その基本に「嘘をつかないこと」があることは特に違和感なく理解できていた。「お父さん」の子供に対して何度も何度も「嘘をつくな」と繰り返している姿にも、人間関係や親子関係の基本には嘘のない生活が必要なのだとの姿勢を感じていた。

 ところが先週のストーリーはこれとはまさに正反対の展開になっていた。しかも「嘘」がこれほどまかり通っていながら、その「嘘」が一度として「嘘」として登場してこないことにどこか不自然さを感じてしまったのである。

 物語の発端は里子の一人に実母が現れて、我が子を引き取りたいと望むところからである。このテーマに、実母に逢わせるべきか、引き取ることを認めるべきか、当事者である子供の意思はどうなのか、里親と実親とはどの程度関わりを持つべきなのか、それらの問題を巡って当事者のみならず、近所の人たち、里子を決定した社会福祉事務所のスタッフなども含めて多くの人間がからんでくる。

 物語は、子供は母親に対する自分の本心を隠し通し、回りの人たちは実母の現れたことを「誰にも言うな」、「内緒だよ」、「口外しないでね」、「本人には言わないで」、「ここだけの話し」だと、その約束を必ず守る約束であるにもかかわらず「言わないと約束した事実を口外する」ことのオンパレードであった。そしてこの実母の話題は登場人物のほとんどに伝わっていくというストーリーである。つまり、「約束を守る」との約束は結果的ではあるがことごとく嘘だったのである。

 これだけ「嘘を言ってはいけない」教え躾られ、それを基本的なテーマとしてストーリーが展開していたにもかかわらず、そしてそのことにきちんと理解を示していた主人公や子供たちがそこにいたにもかかわらず、「嘘をつくこと」になんにも悩もうとしない登場人物全部の姿勢にどこか違和感を感じてしまったのである。
 しかも回りの大人も「誰にも言うな」、「誰にも言わない」との約束をあまりにもあっさりと破り嘘をついていくのである。

 私は「嘘を言うな」とのテーマを持ちながら、それに反して嘘をつくことを当たり前のように表現しているこのドラマの不合理を指摘したいのではない。出てくる嘘の一つ一つをあげつらって嘘を多用していることの矛盾を批判したいのでもない。また嘘に良し悪しの区別があることを主張したいのでも、登場人物が当たり前の顔をして嘘をついているそのことを特別非難しようとも思わない。

 それは嘘の問題はもっと根深いところに存在しているのかも知れないと思うからである。もしかしたら、「嘘をついてはいけない」という絶対的真実みたいな顔そのものが壮大な嘘なのではないのかとすら思っているのである。
 それは絶望的なほどにも到達不可能だと思えるような例えば「平和の実現」みたいな望みとは異なって、「嘘」そのものが人類の存立そのものの中に深く組み込まれているのではないかと思えるからである。

 「嘘をついてはいけない」が、どんなにきらびやかな衣装をまとって登場しようとも、「一つも嘘のない世界の到達」が実現不可能なのではなく、実現してはならない、実現させてはならない世界のように思えてならないからである。
 「嘘のない世界への到達・・・」、人々はそれを人類至高の世界の到来として本当に喜べるのだろうか。それが本当に人間としての望むべき世界になるのだろうか。
 確かに私たちの回りには余りにも嘘が多すぎる。そうした嘘の多くは時に人を傷つけ、国を傷つけ、絶望や不信や猜疑の世界へと多くの人々を追い込んできた。それでも私は「嘘は絶対的な悪」として定義することに躊躇するのである。

 こうした考えは、極端に言うなら嘘には「決してついてはいけない嘘」から「つかなければならない嘘」まで連続して存在しているのだから、そのどこかに線引きができるのではないかと言いたいのとは違う。ここから右は赦される嘘、左は必要な嘘、そしてその中間についてもつかなくてもどっちでもいい嘘のグレーゾーンを区別すべきだと言いたいのでもない。

 嘘は時に表情を変え、心を変えて我々の前に現れてくるのではないだろうか。嘘はいつも変幻自在の顔を持っていて、そうした多様性の中に何が正義なのかをも含めて流動しているものなのではないだろうか。

 だから私は、嘘に対しては「嘘をつくな」という向かい方ではなく、むしろ「人は嘘をつく動物である」ことに真正面から向き合う姿勢こそが必要なのではないかと思うのである。「嘘をつくな」を金科玉条としている限り、人は嘘の持つ呪縛から解放されることなど望むべきもないのではないだろうと思えて仕方がないのである。

 私はNHKの朝ドラの中に、あまりにも「嘘」そのものを絶対的な悪として取り上げていること、そしてそうした嘘を子供も大人もある場合には嘘てあることを感じないまま利用し、そして自身も嘘だと理解しないかのようにドラマが進んでいくことにどことない違和感を感じてしまったのである。

 今日で北海道洞爺湖G8サミットが終了する。今年のサミットへの参加国は全部で22カ国に及んだ。地球温暖化、石油高騰、食糧危機、核開発、北朝鮮の拉致問題などなど、平和も経済も山積している中での首脳会議ではあってけれど、そうした問題の全部についてなんらかの前向きの宣言がなされた。
 それぞれの国が利害を主張する中でのギリギリの妥協だと新聞もテレビも報道している。

 もし見果てぬ夢を望むことそのものが、「実現しない」と言う意味で「嘘」になるのだとしたら、私たちはそうした嘘を信ずることによってのみ生きていけるのかも知れないと、ふと思う。そして同時に「嘘」なしで人は生きていけないのではないだろうかとも・・・。



                          2008.7.9    佐々木利夫


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朝ドラ「瞳」と嘘