事務所でテレビを見ていて、どこか胸をえぐられるような厭な言葉を聞いてしまった。それはこんなふうに私に語りかけた。

 「知らない人が死んでも悲しくないのは変ですか?・・・」(’08.3.31 NHK教育)

 人は死ぬ、大昔から確実に人は死んできた。そして「老い」とは死亡率100%の現実を示すのだとも・・・。だがそれが老いによる死であろうと理不尽な死であろうと、死の意味は自分の死と他人の死とを確実に区別するものであった。他人と言う領域をどこまでと考えるかは難しい問題ではあるけれど、それでも自分一人の命と地球の裏側に住む無関係な他人の命とは、私自身の中で間違いなく異なった基準にあることをあまりにもはっきりと感じることができる。たとえそれが家族だとか友人だとか地域社会や日本人などと言う囲いを通じつつ連続しているものだとしても・・・。

 「人類みな兄弟」だとか「命は地球よりも重い」などと口で言うことはたやすい。しかもそうした決め台詞に理屈で反論することも難しい。なんたって「命の大切さ」を含むメッセージはどんな場合にも反論を許さない絶対無比の正義を標榜しているからである。
 だが、そうした言葉が人間の歴史の中で現実に人の心を動かしたり社会を動かしたり、はたまた命の重さをきちんと伝えたことなどまるでないこともまた誰もが知っている。

 数日前のNHKテレビで渡良瀬川遊水地の広大な葦(よし)原の「よし焼き」が披露されていた。枯れ草に風上からつけられた火は瞬く間に黒煙を上げ、みるみる原野全体へと広がっていった。これはこの地方の一種の行事であり、春の風物詩だとも解説されていた。こうした野焼きの風習はここだけに限るものではなく、奈良若草山の山焼き、阿蘇の野焼き、秋吉台の山焼きなど全国各地に見られる風景である。

 この枯れ草に火をつける目的の中に害虫の駆除があるのだと解説は伝えていた。地中に潜む害虫から新しく芽生えてくる草木を守るために行うのだそうである。焼畑農法という手段もあることだから、こうした作業は新しい植物や作物を育成するためにも必要なのだと考えられているのだろう。

 だが害虫かどうかの判断は人間が勝手に決めたことでしかない。人に役立つのが益虫で、その対にあるのが害虫である。つまり益虫か害虫かは「人間にとって」だけが唯一の基準となるのである。擬人的に過ぎるかも知れないけれど、害虫と宣言された身にとってみれば、我が身を害虫だなどと考える余地などまるでないだろう。
 仮に一歩譲って害虫駆除の目的や意味を認めてもいい。野焼きには「害虫駆除」と言う大義名分どおりの効果があると認めてもいい。しかし野焼きは決して害虫だけを選んで火を放っているのではない。虫の命をそのまま人間の命と並べてしまうのは間違いかも知れないが、命という意味からだけ考えるなら、この野焼きはこの地域に住む虫たちへの無差別大量殺戮になっているのである。殺されるのは害虫だけではない、益虫もまたなんら考慮されることなく焼き殺されるのである。

 命の問題はどこか厄介である。冒頭に掲げた「知らない人が死んでも悲しくないのは変ですか?・・・」だって、命の大切さを基本におくのなら「そうです、変です」、「知らない人の命だって知っている人の命と同じように大切です」と即答できるはずである。
 だが私はイラクやアフガニスタンで毎日毎日、爆弾や飢えで多くの人が死んでいく事実を新聞やテレビやインターネットで知っても、こう言ってしまっては実も蓋もないかも知れないが悲しいとは思わないのである。死刑制度は必要だと思っているからなのかも知れないが、死刑が執行されたとの報道を知っても少しも悲しくないのである。もっと身近に日本中に交通事故や犯罪や天災などで多くの人たちが理不尽に死んでいっても、私はそれを単なる事実として平然と見過ごすことができるのである。

 それは恐らく死者と私との距離によるものだろう。地理的な距離もさることながら精神的な距離もまた、他人の死をより遠いものにする。そしてそれは人間以外の死にもつながっていく。ペットの死に悲嘆の涙に暮れる飼い主の姿は、恐らく見知らぬ他人の死よりもペットの死のほうが近いだろうことを容易に想像させる。

 だから私はこの「知らない人が死んでも悲しくないのは変ですか?・・・」の問いかけに、どうにも解決できない自身へのやりきれなさを感じてしまうのである。この問いかけは私に、私の人格だとか人生などを支えてきた信条みたいなものが、虚栄だとか欺瞞だとか嘘などにまみれた空論から作られているのではないかと痛烈に指弾するからである。

 そしてその指弾に対して私は何一つ反論できないままうじうじと下を向いたまま知らんぷりをするしかなく、同時にそうした態度をとるしかないこと自体に一層の自己嫌悪を抱いてしまうのである。
 「人間なんてそんなもんさ」と割り切ってしまうには、余りにも重いこの問いかけであった。



                          2008.4.2    佐々木利夫


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他人(ひと)の命