現実にそうした表現が多くなってきているのか、それとも単に私の思い過ごしなのか、そこのところは必ずしも検証したわけではないから断言はできないのだが、テレビを見ていて「これは世界でたった一つのあなただけのものです」みたいな表現がやたら増えてきたような気がしている。
 料理にも、手芸にも、絵画や陶芸や書道などなど、手作りじみた作業に特定の個人が参加してしてそれなりの作品を仕上げたときには、それを紹介する人の発言のなかにこの言葉が頻繁に聞かれるようになってきているような気がしてならない。

 別に大量生産や型にはめるような例えばたい焼きや鋳物を作っているのなら、表現として適切かどうかはともかく金太郎飴のようだとの言い方の反語としてこうした「たった一つ」みたいな言葉遣いをしたところでそれほどの抵抗感はないと思うのだけれど、厳密に言うなら金太郎飴だって一つ一つ個別なのではないだろうかとさえ思ってしまう。
 例えば昨日と同じ材料で同じ食事を作ったところで、見掛けは「昨日と同じだ」と思うかも知れないけれど、味付けの具合や焼き加減や柔らかさなどなどは恐らく違っていることだろう。

 私はこの「世界でたった一つ」であることを誤りだと言いたいのではない。ただその表現を賞賛もしくは貴重品であるかのような材料として使うことに違和感があるのである。
 「世界でたった一つ」であることは、その作品などが特別に価値のあるものであることを示すものではない。「世界でたった一つ」はまさにそれだけのことでしかないと思うからである。それを、そうした言葉を発した方も受けた方も、あたかも奇跡を見つけたり類稀な現象であるかのように言い募り、賞賛の言葉として受けてしまうような風潮にどことない違和感を抱くのである。

 単なる社交儀礼だよと割り切ってしまえば事足りるだけのことかも知れない。挨拶で「お早う」と言い交わしたって、それが本当に朝早い時間帯であること示すとは限らない。昼に近いかも知れないし、飲食店などでは夜の出勤時間の挨拶にお早うを使うと聞いたこともある。「さようなら」だって同様に語源は「さようならばお暇(いとま)申す」と言う武士の言葉から派生したと聞いたことがあるから、慣用語や日常語として使われる様々な言葉にいちいち目くじらたてることもあるまい。

 ただ慣用語には、そうした変化が良いことなのだとは必ずしも断定できないかも知れないけれど、慣習化していくうちに言葉そのものの持つ匂いや意味合いなどが少しずつ薄まっていって透明になっていくという経過があるのではないだろうか。

 だとすればこの「世界に一つだけ」もそうした経過の中にある言葉なのかも知れない。だからやがてそのうちに自然に単なる事実だけを表す言葉へと変化していくのかも知れない。

 考えてみれば(そんなに真剣に考えなくたってすぐに分かることではあるけれど)、私自身、あなた自身、世界中の人々の全部がそれぞれ「世界で一つだけ」の存在である。
 だからと言ってそのことだけを取り上げて、その故にこそそれぞれが「貴重」なのだとか「大切」なのだと結論付けるのはどこか違っているのではないいだろうか。もちろんそれは、決してそれぞれの個人が貴重でないとか大切でないとかを言いたいのではない。ただ、全部がかけがえのない貴重さの中にあるのだとするなら、逆に特定された「私だけが際立って貴重なのだ」とする根拠にはなりえないのではないかと思うからである。

 まあ、四捨五入で万事を判断することに慣れてきている身にとってみれば、アインシュタインが大切かアフリカで飢えに瀕している子供が大切かは容易に比較できるのかも知れないけれど、それは「世界で一つだけ」の理論で割り切るテーマではないだろう。
 一つ一つの命ということは、ただそれだけのことでしかないのではないだろうかと私は思い、それはまた世の中には命だけではなく、あらゆるものが「世界で一つだけ」なのではないか、それが世界なのではないか、ことさらに「一つだけ」をとりあげることはどこかで一つだけのものを区別し峻別し、差別化しようとする愚かさを表しているのではないかと思ってしまうのである。

 それにしても今月の2日夜から3日にかけてミャンマーを襲ったサイクロンによる被災者は、国連の発表では250万人にも及ぶとされ(5.15毎日新聞、ネットニュース)、12日の中国四川大地震による被災者は1000万人を超えるとの報道(同上)がされている。そして死者数にいたってはミャンマーサイクロンで最大で12万人(5.16北海道新聞・卓上四季)、四川大地震で5万人を超える(中国政府発表、5.16北海道新聞)との報道もあるなど、世界でたった一つの命と呼ぶにはあまりにも途方もない数が、こともなげに新聞・テレビを賑わすことに私たちは少し馴れ過ぎてきているのかも知れない。
 「世界でたった一つ」とはもはや言葉遊びになってしまったのだろうか・・・。

 そしてダメ押しするかのような今日の新聞広告(5.16、北海道新聞24面、通販広告)だった。

 「あなたの名前が入った世界に一つだけの財布。ご希望の方にプラス1050円にてアルファベット15文字以内でレーザー刻印による名入れをいたします」

 「世界に一つ」であることの根拠は、製品でも品質でも製造過程でもなく、更にはアルファベットでもレーザー刻印でもない単なる「あなたの名前が財布に刻まれている」ことだけを示しているに過ぎない。

 私はこの広告を見て突然思い出したのである。そう言えば数十年も前に小学校に入る娘の持ち物の全部、ノートや鉛筆だけでなく、算数に使うとされるマッチ棒やおはじきのようなプラスティックの小物に至るまで、その全部に名前を手書きしたことを・・・。
 あぁ、私たち夫婦はこんなにもたくさんの世界で一つだけを娘に与えたことになるのである。えっ・・・?。



                                 2008.5.16    佐々木利夫


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世界で一つだけの