自衛隊のトップ幹部の一人でもある他母神(たもがみ)自衛隊航空幕僚長(一種の処分として現職を更迭され定年退職になった)が自説を述べた論文を民間の懸賞に応募して入賞したことが問題になっている。
その論文が問題とされたのはその内容が、「日本の過去の植民地支配や侵略を正当化し、東京裁判で認定された日本の戦争犯罪が今もいわばマインドコントロールのように日本人を惑わしている」(朝日新聞'08.11.13)ことにあるようである。
新聞はもとよりテレビのワイドショーまで巻き込んでシビリアンコントロールはどうなっているんだとかまびすしい。国会も彼を参考人として招致して、「お前は何を考えているんだ」と追求したものの、「私は思っていることを述べたに過ぎない」との回答になすすべを知らない。
私もこの論文の発表は彼が自らの立場をきちんと理解していない結果によるものだとは思うけれど、繰り返されるマスコミの論調の中に一つも「言論の自由」を背景とした擁護論がないことにどこか違和感を覚えた。これまでマスコミは自身の報道に関してはどんな場合も(たとえそれが市民の目から見てどんなに許せない取材方法だと思えるような行動に対しても)、報道の自由こそが憲法の保障する金科玉条の鉄則であり、言論の自由こそがあらゆる規制をはねかえす鉄壁だと繰り返してきたからである。
マスコミに許される言論の自由が国民たる個人には制限されて然るべきだと言うような論調が、マスコミの全潮流になっていて、彼に対する一つの擁護もないことはどこかおかしい。
しかもそうした彼の論文への批判の舌の根も乾かないうちに今朝の朝日新聞はこんな意見を展開していた
。2日前の社説のタイトルには前空幕長の主張を「言論の自由のはき違え」(朝日、11.12)だと糾弾しているにもかかわらずである。
「トヨタ自動車相談役の奥田碩(ひろし)氏も(新聞論調には)腹を立てたそうだ。・・・『厚生労働行政の在り方に関する懇談会』で、『厚労省たたきは異常』『マスコミに報復してやろうか』などと発言した。報復とはスポンサーを降りることらしい。・・・ことにテレビにご立腹だ。・・・政財界への影響力の大きい人が、自由な批判を牽制するような発言はいただけない。・・・報じる側にも反省点はあるだろうが、それでも自由な言論は社会にとってかけがえがない。」(11.14、天声人語)。
ここには個人には言論の自由が制限されてもいいけれど、マスコミの自由な言論はかけがえのない価値を持つのだと一方的に宣言するいつもながらの傲慢がある。
私とて長く公務員を勤めてきた身だから、一つの身に個人と公務員との二つの顔があることを理解できないではない。個人としての意見と組織のそれとに乖離が生じることは仕事にきちんと向かっている以上当たり前に発生することでもある。しかし、そこを弁えるのが組織人として生きる者の一つの役割でもあるだろう。
そうした意味では一つのカラダおける本音と建て前の対立や葛藤が今回の事件の背景にあると言えるのかも知れない。
「本音を言え」とか「本音で生きろ」などと、人は繰り返してきた。「そりゃあ、あんたの言うことは建て前だよ。人と人はもっと本音で付き合わなくちゃ・・・」とも・・・。
「本音」が正直や真実で、「建て前」が虚妄なのだと、どれだけ人は思い、また思い込まされてきただろうか。
だが、こうして二つの言葉がいつも並んで存在すること自体、そして本音であることがいつも正義の衣をまとって世の中にしゃしゃり出ようとしていること自体、「建て前」が世の中にいかに跋扈しているかを示していると言えよう。
こうして、どちらかというとひとりの事務所で気ままに過ごしていると、そうした本音というのがいかに幼稚でわがままで、独善に満ちているかが自分を探っていてよく分かってくる。本音で生きることは、もしかしたら自らもそして他の人々も対立と混乱と無粋の渦中にまともに追い込んでしまうのではないかとさえ思えてくる。
ただ、建て前は確かに虚妄を含んでいるかも知れないけれど、その中には人の理想というか、あるべき姿というか、そうなりたいと願う必死の思いというか・・・・、そんなもしかしたら実現させることのとても難しい、孤高の世界のような空間を内包しているのではないだろうかと思えてくるのである。
だから私は、私の内心を省みて、建て前に生きることはもしかしたらとてもカッコイイことなのではないかと、そんな風に思っているのである。
そうは言っても建て前を貫くためには、どこかでやせ我慢みたいな見返りを求めない強さというか意地が必要であるような気もしている。そしてそうした意地は、もしかしたらとっても孤独であってそれを保つ姿勢そのものがとても疲れるような気もしている。そんな毅然とした建て前に、果たして人は耐えていけるのだろうかとも・・・。
航空幕僚長の論文は恐らく彼の本音なのだろう。だからその内容を否定することなどまさに「言論の自由」に対する挑戦になるのではないかと思うのである。マスコミはどんな人間がどんな意見を持とうとも、そうした意見を持つことそのものを批判してはいけないのではないだろうか。それはまさにマスコミそのものの自己否定になってしまうと思えるからである。
今回の事件の問題は、そうした論文を「公務員の立場で発表したこと」にあるのではないか。
問題が表面化した後、防衛大学校の五百旗頭(いおきべ)校長は「軍人は国民に選ばれた政府の判断に従って行動することが求められる」と語ったと言われている(朝日新聞、11.12社説)。これはまさにそうした建て前に生きることが公務員としての責務だと言うことでもあろう。
しかしながら、「軍人が自らの信念や思い込みに基づいて独自に行動することは・・・きわめて危険である」(同校長の言、同上朝日社説)ことを否定するつもりはないけれど、そうした危険を回避しようとするあまりに個人個人が抱く「自らの信念や思い込み」までをもコントロールしてしまおうとするような考えや、マスコミの論調にはどこか危険な臭いがする。
私には今回の事件の本質は、「本音を出す時と所を間違った。もっと自らの位置する建て前を理解すべきであった」ことにあると思えるのである。だからそうした意味の論調がどのマスコミからカケラほども匂ってこないことに、マスコミの考えている言論の自由に対する身勝手の過ぎる偏りをみるのである。次のような頑なとも言える意思をマスコミはどこへ置き忘れてきたのだろうか。
(1960年ころ)、「ジャーナリストの間でよく語られた言葉がある。それは、ジョン・サマヴイルの『試練の現代文明』(一九五八年六月、みすず書房刊。久野収・市井三郎訳)の扉にかかげられた言葉。
ヴォルテールをして次のように書かせた精神に献ぐ
《貴方のいうことにはひと言も賛成できるところはないが、貴方にそれをいう権利があることは、死を賭しても私は守るつもりです》
澤地久枝「わたしが生きた「昭和」(岩波書店、1995年、P182)より孫引き
本音は脆いものである。だから人は自らの持つ弱さに素直な心を「本音」と名づけ、正義の衣を着せることで「建て前」に生きることの厳しさから少しでも逃れようとしているのかも知れない。
2008.11.14 佐々木利夫
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