つい先日の新聞である(’08.7.10、朝日、22面)。介護に関する特集記事で、その中に老親を介護している人からの質問とそれに対する官庁の回答が載っていた。私はそれを読んでなんだかとても悲しくなったのである。少し長くなるけれど質問と回答の全文を掲げたい。

  サプリメント代請求された  父が認知症になり、グループホームに入って1年たつ。入居時の約束は分からないが、毎月の請求書にサプリメント代9千円とある。「体にいいから」という話だった。サイドビジネスに関係していると思うが、よく面倒をみてもらっており「ご不満なら退去を」といわれるのが怖い。チエックする公の体制はないものか。(東京都 女性)

  市町村窓口へ  事業者と利用者は対等です。まずホームの方と話し合って下さい。納得できなければ、市町村窓口で相談や苦情申し立てを。(厚生労働省認知症・虐待防止対策推進室)

 このアンサーがきちんとした回答になっているのだと、回答者は本当に思っているのだろうか。私はこれを読んで質問と回答のすれ違いにどこかおかしいとの思いを通り越して、どこか腹立たしささえ感じてしまったのである。
 私自身職業として官庁に定年まで長く身を置いていたから、官庁の組織としての動きが分からないではない。それでもこの回答はひどすぎるのでないだろうか。

 質問者の意図は、その疑問をどこへ向けたらいいのか分からないと言っているのではない。回答者の書いている内容など質問する前から知っていると思うのである。
 毎月の請求書に内容不明の項目があり、そのことを既に請求者に尋ねていることは、質問にある「体にいいからという話だった」という記載からもはっきり分かるではないか。

 質問者が一番聞きたいのは、「ご不満なら退去を」と言われるかもしれないことに対する恐怖なのだということがどうして分からないのだろうか。介護施設は金に糸目さえつけなければいくらでも存在している。だが質問者は「内容不明の9千円」の請求なのだから、そんなに余裕のある生活ではないだろうことがすぐにも分かるはずである。質問したことを逆恨みされて退去させられたら次にどこへ行けばいいのか、経営者との間で気まずい思いをして、そのことがいつまでとも知れぬ両親の介護に影響したらどうすればいいのか、そんな質問者の思いなどがこのたった数行の質問から分かり過ぎるほど分かるではないか。

 この数行の回答といえども天下の朝日新聞への厚生労働省本省としての見解の掲載である。組織の名前が表示された意見を外部へ発表する場合、それは組織内部の一個人の勝手になるものではない。そうした意思決定というか意思疎通の方法が堅苦しい官庁の慣習であると批判されるかも知れないけれど、必ず「決裁」と呼ばれる手続きが必要となる。最終判断者が担当係長までかそれとも課長・部長までか、はたまた組織のトップたる局長や大臣までかは組織内部の判断に委ねられてはいるだろうけれど、担当者個人の意見が組織意見として発表されるなどあり得ないと考えてよい。

 だからこの回答も、少なくとも担当者が回答の原案を起案しそれを数人の上司がチエックして、その上で始めて外部へ公表されたのだと考えてよい。だからこそそうした見解は「組織の意見」として、ある程度公的な意味合い、場合によっては官庁自らがそのことに拘束されるまでの力を持つことになるのである。官庁が自らの意見を公表すると言うことは、そう言うことなのである。だからこその「決裁」なのであり、この意見もそうした手続きの下で公表されたのだ思う。

 にもかかわらず質問と回答とがまるで食い違っていることに、まるで「イスカの嘴の食い違い」になっていることになんとも言えない残酷さみたいなものを感じたのである。

 回答を読んで第一に感じたのは、この官庁には「これしきの想像力すらないのか」と言う絶望感みたいなものであった。質問者の聞きたいことをなんにも分かっていない、質問の意図をまるで読み取っていないとの思いであった。想像力の欠如などと大げさに言うまでもない、質問者の不安はちゃんと書いてあるではないかとも思ったのである。

 そして次に感じたのは回答者への疑惑である。回答者は本省と呼ばれる日本における担当組織のトップである。この回答は全国紙への掲載であり、マンションの自治会や町内会の広報誌に末端職員が個人的意見を載せるのとは訳が違う。本省と言われる組織が必ずしもトップエリートだけで構成されているとは思わないけれど、少なくともある程度の知識人の集合であることに違いはなかろう。普通の文章を普通に理解することくらいできる能力は持っているはずである。

 だとすれば彼等には質問者の質問の意図くらい十二分に分かっていたのではないかと思ったのである。分かっていてあえて回答をはぐらかしたのではないかと思ったのである。
 もしそうだとするなら、そうしたはぐらかしは犯罪にも匹敵するような行為ではないのか。質問者が必死に聞いていることに対して、それとはまるで無関係なレベルで回答したフリをするなど許されない行為ではないのか。

 そしてもう一つ、新聞の担当者に対するどうしょうもない情けなさである。この記事は介護に関する特集記事の一部分である。担当スタッフがどの程度の人数なのかは分からないが、今回の特集のタイトルに「介護保険N」と書かれていたことから判断するなら長く続いてる特集だろうし、少なくとも一人と言うことはないだろう。そうした複数のスタッフがいるにもかかわらず質問者の意図をきちんと理解し、それに呼応した回答になるまで回答者への取材を続けなかったことへの落胆である。しかも新聞記事の掲載だって、内部的に編集長などと言った監督者の監修があるだろうにもかかわらずである・・・。

 厚生省と税務とはまるで違う官庁ではあるけれど、同じ公務員として人生の大半を過ごしてきたこの身にとってこの回答にはなんとも言えないやりきれなさを感じてしまったのである。そして「国民には知る権利がある」などと常に言い募らせているマスコミの姿勢にもである。

 記事への批判が少し長くなってしまったけれど、ことはこのグループホームに入所している人とその家族の問題に止まるものではない。人間関係や組織と個人の関係には、どうしたって「力」の介入は避けられない。そうした「力」のすべてを悪だと決め付けるつもりはないし、逆にそうした「力」があるからこそ安定し安心できる人間関係が築いていることも多いことだろう。

 だが時として「力」は「力ある者」の有利や恣意によりねじ曲げられて使われる恐れは多分に存在する。弱者はそうした「力」に抗するにはあまりにも無力であることが多い。だから弱者は途方に暮れて第三者へ助けを求めるのである。

 従業員や保護を受けている者などが、都合の悪いことを表に出してしまえば、会社をリストラされるかも知れない。左遷や降格が報復として待っているかも知れない。卒業できないかも知れないし、いじわるや嫌がらせや不当な扱いを受けるかも知れない。そして「力」は多くの場合「力」そのものが行為者の不正を覆い隠すことができるような権威や理論武装みたいな鎧を身にまとっている。
 そうした力に対して弱者は余りにも無防備である。だから不安になるのである。その不安を少しでも和らげて欲しいと助けを求めるのである。そうした声が届かないのだとしたら、そして届いても無視されるのだとしたら、弱者は声そのものを上げられなくなるではないか。

 官庁の役割は、国民全体に対する奉仕にある(憲法15条)。だから公務員は国民の聞こえない声、聞こえにくい声、隠されている叫びを聞く耳を持たなければならないのである。行政として法律を適正に執行するとはそういう意味も含まれているのである。そしてそうした声を聞くためには、聞く側に聞こうとする意思、何が言いたいのかを想像する力が必要になるのである。聞きたいと思う心がないと、聞こえても聞こえないのである。聞こえてこないのである。

 ましてや本件の回答者は、弱者の声にこそ耳を傾けなければならないであろう老人福祉を担当する日本の行政のトップ部署である。私には質問者が訴えているこんなにもはっきりした声にまで耳を蓋ごうとしているかのような回答者の姿勢に、どうしょうもないやりきれなさを感じてしまったのである。



                                 2008.6.16    佐々木利夫


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「官庁の対応」雑感