アメリカに端を発した金融危機が実体経済を巻き込んで世界不況とまで言われるようになってきている。日本はまだまだ大丈夫だと就任直後の麻生総理大臣は繰り返しているけれど、不況の影は目に見えるように忍び寄ってきている。

 そんなこんなで政府は来年3月までに全国民を対象として金券を配ろうとする話が持ち上がっている。来年9月で衆議院は任期切れになるし、現在の参議院は民主党が主導権を握っていることもあって、景気対策よりは解散総選挙対策へのばらまきではないかとの批判が高まってきている。なんたって世帯に2〜3万も支給しようと言うのだからその支給手順や対象者をめぐって市町村も大わらわである。

 さてその金券であるが、お金持ちにも支給するのかが問題になっている。つまり、金持ちも貧乏人も区別することなく支給するのかであり、そんなことをしたらまさに「ばらまき」になってしまうのではないかとの批判を心配する声もあるようである。所得制限を設けることも一つの手段なのだが、そうするためには判定のための市町村の作業が膨大になってしまって年度内支給が間に合わないなどの意見が多い。それで浮上したのが高額所得者にはこの受け取りを自主的遠慮してもらおうとの意見である。

 どんな形にしろ税金を国民に戻そうとするのだから、所得1千万円を超える者には支給しないとか、あるいは所得に関係なく全員に給付するなど、法律で要件をきちんと定めるべきであって(それが法治国家としての責務であろう)、自主的などというあいまいな枠組みでやること自体どこか変ではある。

 それはともかくとして、この所得制限と言う発想にどこか違和感を感じてしまった。金持ちは裕福なのだから、たかだか数万円の金券など「泥棒に追い銭」みたいなものは止めようというのだろう。
 貧乏人にこそこの不景気に対する支援をすべきであって、わざわざ金持ちに同じような支援はおかしいという理屈であろう。

 こうした考えはなんとなく納得できるような面も持ってはいる。あらゆる物価が上昇しており、会社の倒産やリストラの危機が他人事でない状況の中で、貧しい者にこそ臨時的にもせよこうした支給を考慮すべきであるとの考えがまるで理解できないというのではない。だが、こうしたいかにも正論じみた議論が、立派な背広姿で運転手付きの高級乗用車から降り立つ政治家の口から聞こえてくると、私のようなへそ曲がりは、へそ曲がりを承知で一言言いたくなってしまうのである。

 どこに基準を求めるかは色々だとは思うけれど、まあ世の中、「金持ち」と「貧乏人」がいることに異論はない。そうしたとき、そのどっちが大切なんだと問われると、政治も社会もこぞって「そりゃあ、貧乏人に決まっている」と言う。そして「貧乏人」を大切にするということは、多くの場合衣食住の世話など「生活の資金を援助する」ということが背景にあるように思う。

 そうした時、その金は政府が日銀に命じてパカパカ札束を印刷して調達するわけではなくて、結局はお金持ちから集めてこなけりゃならない。それが税金と言う形にしろ、はたまた善意の寄付によるものにしろ、お金持ちがいて始めて成立する理屈である。

 政治そのものが国有財産の売却などと言った一過性の算段以外に金を稼ぐ方法などないのだから、だとしたらお金持ちを大切にして、そこからもっと貧乏人に金を出してもらえるようにすることも一つの考えなのではないだろちうか。
 しかも今回の給付金の発想は、その金銭をもって消費の拡大を図ろうとするものである。つまり冷え込んでいる景気を上向きに転じる導火線としてこの金券を使おうとするものである。だとするなら、金券を配布することによって、金券を配布しないときよりもその分だけ消費が拡大することを狙っているということであろう。

 表現としては適切でないかも知れないけれど、その金券を通常の生活費として利用するのではなく、通常の生活費は自分の給料なり貯金からいつも通りに支出して、その上積みとして一種の無駄遣いや贅沢のようにして利用して欲しいとの思惑があるのだと思う。

 だがこの不景気の最中、世はあげて節約志向である。そんな時にこの金券がそうした節約志向に組み込まれてしまうのではないかと私には思えてならないのである。たかだか一人当たり1万から2万程度の給付金である。この程度の金で車を買おうかとか、新しい液晶テレビに買い換えようかなどの思惑は生まれそうにない。
 財布の紐をしっかり締めるのは貧乏人の基本的な知恵である。金券を貰おうが貰わなかろうがスーパーへ行って米、味噌、しょう油を買うときに、その金券を使うのだとすれば、トータルとしての消費は変わらないことになってしまうからである。そのスーパーでの買い物は自腹で払い、貰った金券は余分な金なのだから、恐らく貰わなかったならば使わなかっただろう余分な衣類であるとか、ホテルでの食事だとか、旅行などに使ってほしいとの思惑があるのだと思う。言い方は悪いけれど「金券分の贅沢の奨励」、こうした方向に向かうことこそが政府の狙う消費の拡大だと思うのである。

 だとすれば今回の政策、特に高額所得者への配布制限は、まさにこれに反するのではないだろうか。金券をいつも買っている米の代金に充ててもらっては意味がないのである。むしろ金持ちの方が無駄遣いをしてくれるのではないだろうか。どうせ企業経営の資金繰りに使えるほどの額ではない、単なるあぶく銭にしか過ぎないのだから、その金券に自分の金も少し足してレストランでビフテキを食うかも知れないし、銀座のパーで過ごすことだってないとは言えないからである。それとも金持ちはこの程度のはした金など消費に回すどころか机の引き出しの中で眠らせてしまうのだろうか。だとすれば景気回復には結びつかないことになる。

 もちろんタダで貰える金券なのだから、貰って迷惑だと感じる人は恐らくいないだろう。だが、その金券が本当に景気回復につながるとはどうしても思えないし、特に麻生総理大臣の言う「生活に困っている人」に配布しようとしているのなら、消費の拡大などにはまるでつながらないのではないかと思うのである。

 生活困窮者に対する援助みたいな理屈は見かけ上もっともらしく見えるけれど、まさにそのことは選挙に向けてのばらまきだと、誰もが思っているのではないだろうか。そして貰うものは戴くけれど、その原資が結局は国民の税金からの支出であり、場合によっては三年後と総理が明言した消費税増税を人質にとっての一過性の人気取りに過ぎないことを、多くの国民は見透かしているのではないだろうか。

 貧乏人に対する施策には様々なものがある。いわゆるセフティーネットの破綻が目に見えるようになってきているから、その対策にはどうしたって金が要る。金を生み出す方法にはたった二つしかないことを、私は税務職員の経験からはっきりと分かる。企業も国も同じである。収入を増やすか、支出を減らすかである。支出を減らすために税金の無駄遣いをなくすことも大切だけれど、それならそれで目に見えるようにやらないと宣言だけではどうにもならないことは明らかである。

 さて収入の増加の方法には、増税と景気の回復がある。増税は一番安直な手段である。昔から苛斂誅求の語があるように百姓からの年貢を引き上げる時代劇などでおなじみだからである。だが今の政治制度の下ではそうした方法は思うほど簡単に採用できる手段ではない。だとすれば景気の回復が次善の策である。そして金持ちを増やすかもっと金持ちになってもらい、そこから税金としてきちんといただくことのほうがずっと楽である。つまり「貧乏人よりは金持ちを大事にしたほうがいいのではないか」もそれなりの理屈になるのではないかと思うのである。

 もちろんこの話はへそ曲がりの身勝手な屁理屈である。だが、政府が今回の金券バラマキを、貧しい人に対して援助、つまり社会政策であるとか福祉の問題として考えていると言うのならともかく、景気回復を目的に実施するなどとあまりにも白々しい口調でのたもうものだから、どこかカチンときてしまっているのである。

 とは言いつつ私も貧乏人に分類される身だから、恐らくいそいそと金券を貰いに出かけることだろう。ただ、こうして一方でいちゃもんをつけつつ貰いに行くだろう姿勢に、今の政治に対する不自然さも同時に感じている。



                                     2008.11.13    佐々木利夫


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金持ちと貧乏人