監視カメラがいたるところに配置されるようになってきた。銀行のキャッシュコーナーで、他人のキャッシュカードを使って現金を引き出す姿や、スーパーやコンビニなどでの万引きや強盗などの姿などが時々テレビで放映されるようになってきた。
 またテレビドラマなどでも監視カメラに映った映像が犯人の特定につながったり、時に無罪を立証するアリバイに使われたりするなどの番組も多いから、それだけ監視カメラが身近になってきたということなのだろう。。
 東京新宿の歌舞伎町などの繁華街には、路上を常時監視カメラで撮影が行われそれが犯罪の減少犯人逮捕などにつながっているとの話も聞いたことがあるし、現に私の住むマンションにも数年前にカメラが設置され、暗くなってから建物に近づくといきなりライトが点いてびっくりすることがある。

 そうした監視カメラの存在は、最近の行きずりの犯罪であるとか、いわゆる動機なき犯罪などが多発する時代に加えて警察による検挙率も下がる一方なのだから、そうした意味でも必要なのだと思っていた。
 そして数日前、岐阜で商店街に植えられたチューリップを持っている傘でなぎ倒している中年らしい男の映像が全国放送で公開された。監視カメラが捉えた映像だそうで、僅かの時間そして多少荒い画質ではあったものの犯行の状況を分秒まで表示した映像だった。

 最近、全国各地で街路などに並べられている花を根こそぎ折ったり切り取ったりする事件が多発しており、ニュースとしての価値が高まってきていたことも、この映像公開の背景にあるのだろう。
 だが、見ていてどこか違和感が残って仕方がなかった。花をなぎ倒す行為は犯罪である。器物損壊罪になるのだろう。だから流されている映像は犯人の犯罪を実行している姿である。
 にもかかわらず私はテレビ映像を犯罪を現に犯している犯人の姿として見ていたのではなかった。単なるゲームのような面白さの感覚で眺めていたのである。犯罪現場を見ているにもかかわらず、その犯行を憎むというようなそんな感情からは少し遠い気持ちだったのである。

 そしてこれはテレビでの放映はなかったけれど、埼玉県草加市で4月20日に商店街のプランターから大量のパンジーを引き抜いたとして21歳の男が逮捕されたとの記事があった(4.27朝日)。これも防犯カメラにその男の犯行の事実が映っていたのだそうである。

 多くの事件が犯罪捜査に関して防犯カメラの映像が使われていることを批判しようと思っているわけではない。むしろその映像によって犯人の手がかりが得られるケースも多いことだろう。
 だが私には、だから良かったじゃないかと言ってしまうのにはいささかの躊躇が残るのである。防犯カメラの映像の利用には地方自治体がその濫用を避けるために様々な規制なり利用方法なりを条例などで定めるケースが多いし、設置している例えば町内会であるとかマンションなどの管理組合、コンビニなどの商店自らも含めて録画、保存、管理、公開などについて自主的な規制を行っているとも聞いている。

 恐らくは公開されなかった映像は、一定期間保存された後に廃棄されるのであろう。だとすれば、仮に防犯カメラによる撮影にプライバシーなどを犯すような可能性があるとしても、そうしたきちんとした管理によってそれが防止され、一方で犯罪の防止や犯人検挙に資するのだから不都合はないのではないかと言う理屈も成立する。

 だが先日、東京のマンションから女性が拉致されたのではないかとの報道では、そのマンションにはエレベーターや通路には24時間カメラが作動していたにも関わらずその事実をうかがわせる映像がないとのことだった。そしてそのマンション内を全戸を捜査した結果、警察は防犯カメラの死角を利用して外に連れ出したのではないか、それもその防犯カメラによる録画を避けるために死角になっている塀を乗り越えて拉致したのではないかとのことであった。防犯カメラが犯罪抑止に効果のなかったことを余りにも明確に示した事例であった。

 ただこの事件の報道を見て違和感を覚えたことは、たかだか一戸のマンションでありながら、塀を越えるというような想定外の行為はともかくとして、通常の出入りに関係する場所についてはすべて録画され、保存されているという事実であった。
 そのマンションがどの程度の規模なのか私は知らない。それでもたかだか数十戸程度であろうその建物には、出入りする住民や訪問者などの姿が24時間すべて記録されていることに、どことないやるせなさを感じたのである。

 防犯カメラはいまや駐車場や繁華街の路上なども含めて、人の集まる多くの場所に設置されていると聞いたことがある。そしてカメラそのものは目立たぬように、しかも24時間そこを通る人たちを撮影し続けているのである。

 恐らく撮影された映像のほぼ全部が、特別な事件の起きない限り利用されることなく廃棄されてしまうであろうことくらい理解できないではない。もしかしたら撮影のしっ放しで再生される機会すらないままに消去される映像がほとんどなのかも知れない。ただ、そんな風に思っているのは私の勝手な想像でしかない。撮影された映像がどんな経緯をたどっているのか、そうしたルートはたとえ通りすがりにしろそこを通った私のまるで感知しないところでなされているからである。
 そしてある日忽然として撮影された覚えのない映像が現れるのである。その忽然と現れるという手品みたいな手法の影に、私は人間社会の不信と言うか人が長い間築き上げてきたはずの人としてのぬくもりの喪失を感じてしまうのである。

 そうした私だけの感情を基にものごとを判断するのは間違った判断を招くことになるかも知れないけれど、監視カメラがどんどん広がっていくという現状は、どこか社会の進む方向として間違っているのではないかと思えて仕方がないのである。
 だから私には、犯罪抑止であるとか犯人逮捕などに結びつくなどと言う、結果よければすべてよしで済む話ではないと思えてならないのである。



                          2008.4.28    佐々木利夫


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